小金井小次郎

小金井小次郎(こがねい こじろう、こがねいの こじろう、本名・関小次郎、1818年 - 1881年)は幕末の侠客、博徒。小金井一家初代。

略歴

  • 東京都小金井市の人。
  • 文政元年(1818年)、武蔵国北多摩郡下小金井村の名主関勘左衛門の次男として生まれる。母はなお、兄に虎之助(寅吉)がいた。
  • 名主の子として教養を備えながらも、若い頃は近隣の若者を集めて無法を働いた。
  • やがて府中の博徒親分藤屋万吉の兄弟分となり、本格的に任侠世界の修業に勤める。
  • 天保6年(1835年)、小金井橋の賭場で兄が小平堀端の堀畑与三兵衛?に辱められたことに怒り、賭場に殴り込み与三兵衛に傷を負わせた。このことで大いに名を高めた。
  • 天保11年(1840年)、武蔵二塚明神前で小川幸八平親王平五郎連雀嘉助?八軒栄次?廻田栄太郎?らの連合勢力との大喧嘩で名をあげる。
  • 以降役人の目をくらませ関東各地を逃亡していたが、木更津に草鞋を脱いだ際、土地の顔役三直玉吉と競り合う。結局玉吉の息のかかった目明しの詐術に陥り捕縛され、佃島の人足寄場に送られる。
  • ここで侠客・新門辰五郎と偶然出会い、兄弟分の契りを結ぶ。
  • 弘化3年(1846年)、佃寄場服役中に、本郷丸山からの大火という大事件に遭い、その際、辰五郎と共に囚人を指揮して油蔵を守る。このことが遠山金四郎(遠山の金さん)に賞賛され、いち早く放免された。また晩年には、神社の再建にも力を尽くすなど義侠の行為を行った。
  • 以降、活動場所を府中宿に移し、番場宿に茶屋・玉川屋を開く。同時に任侠として活動もするが、度重なる賭博開帳の罪と、子分らの殺傷罪により、安政2年(1855年)八王子で捕縛され、翌年の安政3年(1856年)、三宅島送りとなる。
  • 三宅島流人帳に安政3年4月12日、博奕之御科にて遠島、慶応4年5月6日、御赦免仰渡候、下小金井村無宿、真言宗小次郎38歳とある。
  • 13年に及ぶ遠島期間中、水の便に苦労する伊豆村の住民を見かね、私財と人脈を使って「小次郎井戸」を作った。
  • また人形芝居や写し絵の興行を度々おこない、島民の慰労に務めた。
  • 明治元年(1868年)、大赦で小金井へ帰り、布田宿(調布市)で茶屋を営む。
    島帰りの顔役として羽振りをきかせて東は新宿、南は祭礼で賑わう川崎大師までと縄張りも広く、子分は1200人余りといわれた。
  • 新門辰五郎と兄弟分または辰五郎の舎弟、甲州の津向文吉と兄弟分。
  • 高萩万次郎大場久八の舎弟とも。
  • 小次郎四天王は四軒寺藤蔵矢端藤五郎田無徳蔵?高井戸勇次郎
  • 一ノ宮ノ万平の子分東中野の堀口才治郎墓に小金井小治郎ほか六名の刻名あり。
  • 小金井神社狛犬に願主関小治郎、神山の土屋栄五郎墓に世話人小金井村玉川屋小次郎とある。
  • 明治14年6月5日死去。64歳または65歳。墓所は東京都小金井市中町の西念寺前の鴨下家墓地、戒名は大雄致允徳居士。小次郎墓には子分二百二十名の刻名あり。
  • 1967年から1971年まで東京都小金井市の市長を務めた関綾二郎は小金井小次郎の曾孫。

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