稲荷増五郎
稲荷増五郎(いなりの ますごろう)は幕末の侠客、博徒。
略歴
- 武蔵国田無宿の人。
- 父は升蔵で銚子五郎蔵の兄弟分。
- 屋敷の隣に笠森稲荷があったことから、近隣では通称を「稲荷様」と呼ばれた。
- 田無宿の顔役として知られ、増五郎が出ればどんな争いも収まると言われた。
- 小金井小次郎の兄弟分。増五郎の方が6つ年上であるが、温厚な性格のため五分の盃を交わした。
- 倅は竹次郎(別名・長四朗)も晩年は増五郎を名乗り、小金井小次郎の弟分となる。
- 小次郎の四天王と呼ばれる田無徳蔵は、元々は増五郎の子分で、後に小次郎の腹心となったと言う。
- 嘉永2年(1849)、秋津村(東村山市)の祭礼賭博の際、小川幸八の元子分・恋ヶ窪彦太郎、大沼田新田政五郎?ら9人の刺客に襲撃をかけられ、仲間の野中村音五郎?と共に重傷を負う。増五郎は足を鑓で貫かれたが命に別状はなかった。
- 高潔で自然体な人柄で知られ、慶応2年(1866)6月の武州一揆の際には、田無宿の大総代兼名主を務めた田無村半兵衛から、蓄財の1000両が入った甕を預り、暴徒からそれを守る。やがて事件が終わると、何食わぬ顔で全額そのまま半兵衛に返却し、そのまま立ち去ろうとした。半兵衛がお礼を申し出ると断り、それでもと言うと、「では今後、私の開く賭場に目をつぶってください」とのみ返した。以降増五郎の賭場には役人の手入れが入らなかったと言う。
- 倅竹次郎も後年「増五郎」を名乗り、侠客として知られた。
- 慶応3年、陣屋三之助の若衆が境村の若者と諍いを起こした際には、三之助の助っ人として軍勢に加わり、若者たちを杵築神社の境内まで追い詰め詫びを入れさせた面々の中に竹次郎が加わっている。
- かつて子孫宅に増五郎愛用のピストルが残っていたが、ある代に柳沢の道具屋(質屋)へ流してしまったとの話が残っている。
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