都田吉兵衛
都田吉兵衛(みやこだの きちべえ、通称・都鳥、本名・大村吉兵衛、1828年 - 1861年)は幕末の侠客、博徒。寺島一家二代目。
略歴
- 遠江国引佐郡都田の人。
- 実父・都田源八も博徒で火ノ玉ノ源八と呼ばれた。
- 父が博徒と争い殺され、都田一家は散り散りになった。
- 吉兵衛と兄弟が一家を再興し遠州一帯の縄張りを押さえ、大親分となった。その貫禄は清水次郎長を大きく超えたという。
- 次郎長一家の森石松が、都田一家の縄張りの池新田で賭場荒らしを行った。
都田一家の代貸・伊賀蔵が石松を袋叩きにし追い出した。
森石松は仲間を連れて伊賀蔵に殴り込みをかけるが逆に叩きのめした。
清水次郎長が報復しようとしたが、次郎長の義兄・江尻大熊、安東文吉が仲裁した。
- 万延元年4月、森石松が江州草津御幸山堅太郎から次郎長の妻・お蝶の香典銀25枚を預かった。その帰りに都田一家に寄り、都田吉兵衛と顔を合わせる。石松が自慢して見せた銀25枚を、少しの間貸してほしいと金を騙し取った。
- 万延元年(1860年)6月1日、金の返金のもつれで遠州中郡(後の静岡県浜松市浜北区小松と思われる)にて、清水次郎長の子分・森石松を騙し討ちし、斬り殺す。
- それを知った次郎長は都田襲撃を計画したが、心配した安東文吉がまた間に入り、金で一時解決させた。江尻大熊も吉兵衛と兄弟分であったが、これを知り絶縁した。
- 文久元年1月15日、都田吉兵衛は、年始と次郎長への詫びを兼ねて清水を訪問する。安東文吉の指導もあって、府中から清水への入口、東海道追分の旅籠茶屋に代貸の伊賀蔵ら三人の少人数で立ち寄った。ここで土地の博徒・沼繁と一緒となり、座敷で酒を飲んだ。
この座敷で沼繁の居候の博徒・馬鹿国といざこざが起きた。頭に来た馬鹿国は次郎長の子分に「吉兵衛が殴り込みに来た」と告げ口をする。子分の知らせを受け、次郎長は喧嘩支度して、7~8人で茶屋に乗り込み、吉兵衛の弁解も聞かず、吉兵衛、伊賀蔵ら3人を斬り殺した。吉兵衛34歳。次郎長は吉兵衛の腕を斬り落とし、遠州小松の石松の墓に供えたという。
- 兄弟分には本郷金平、本市場金七、江尻大熊などがいた。
- 文久元年1月15日または万延2年(1861年)歿。
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