片桐 俊

片桐 俊(かたぎり すぐる、1967年- )は日本の元ヤクザ。元指定暴力団・住吉会・四代目中村会香山組幹部。東京都荒川区出身。

人物

浅草発砲事件

当時の時代背景と要因

  • 1990年(平成2年)2月、二率会との八王子抗争に完全勝利した五代目山口組は、稲川会との間で結ばれた「多摩川を超えない」という不文律協定を無視し、都内で資金獲得を目指して進出していた。
    特に、旧倉本組分派の貴広会は、一時は五代目山口組の有力組織である宅見組、三代目山健組後藤組と並ぶほどの勢力を保つ程で、在京組織の末吉隆秀?率いる大末総業や川口京孝?率いる川口総業が中心となっていた。縄張りを重んじる関東のヤクザ組織は、首都圏で暴れる山口組を嫌っており、さらには都内で五代目山口組系組織同士が縄張り内で騒動を起こし、地場組織ともトラブルを起こすようになっていた。

大量動員での威圧行為

  • 2004年(平成16年)10月24日、浅草ビューホテル近くの住吉会中村会事務所に、突然、五代目山口組貴広会組員50人が押しかけて来た。
    居合わせた幹部の片桐(当時37歳)が、「よくもまあこんな大勢で来て。この状態じゃ話しも出来やしない、場所を移そう」と、貴広会側の責任者に伝え移動させた。
  • 浅草ビューホテル一階の喫茶店に場所を変え、片桐と幹部の加藤勉?(当時39歳)が改めて話し合いに入った。いつもの様子と違い店内の重々しい雰囲気から、危険を察知した店員が浅草署に通報した。この時からすでに喫茶店内は、貴広会組員が待機しており一般客にも威圧行為をしていた。
    店側から通報を受けた浅草署は、私服警官を喫茶店に緊急配置させ厳戒態勢に入り、膠着状態が長く続いたため署員に促され一度両組織の話し合いの場を解散させた。
  • この事件に関し、管轄署員が目撃した内容を報道機関関係者に説明した話しでは、貴広会側の組員は、どうも関東出身者が関西の「山口組」をアピールするつもりだったのか、話し方が映画の影響を受けたかのような、関東出身者がわざと関西弁を使う口調で大声で話す姿に違和感を感じたという。

浅草発砲事件

  • 店内から解散させた十数分後、喫茶店前で外部の者であろう人物と携帯電話でやりとりしていた片桐ら2名は、再び店内に戻り話し合いを始めたところ、喫茶店内に待機していた数十人の貴広会組員に一気に囲まれ、威圧行為からエスカレートし怒号や罵声を浴びせられ始めた。
    言葉を選び丁重な対話をしていたが、全く話しにもならないと判断した片桐は無言のまま無慈悲に、テーブル向かいに座る貴広会責任者と威圧言動を先導する者に拳銃を発砲した。これにより貴広会若頭補佐・関東責任者・中川総業?組長・中川謙一?が頭部銃創により即死。川口総業?若頭・末吉民男?が意識不明の重体となり、後に死亡した。川口総業?組長の川口京孝?ら2人は重軽傷を負った。
  • 起訴後、身柄を東京拘置所に移された際、当時関東二十日会加盟組織の代紋頭らの多くが面会に訪れたとされる。
  • この事件により、銃刀法違反・殺人容疑で現行犯逮捕され、取り調べには全く反抗的態度は一切せず、終始素直に応じ全ての責任を完全に認めた。故人の家族関係者へ示談中に検察側から求刑を出されたが、一度上告し、後に高裁から無期懲役の判決を受け服役となった。

抗争の終結

  • 本件により死亡した故人への示談金は支払われたが、五代目山口組貴広会側への慰謝料の支払いは、されることは無かった。また貴広会執行部は、わざわざ50人もの大量動員したにも関わらず戦果は無く、逆に50人を相手にたった1人で対応した人物により犠牲を払った件を非常に問題視し、大半の関与者に対し破門・断指・長期謹慎など厳格な処分を下した。


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