黒田屋勇蔵
黒田屋勇蔵(くろだやの ゆうぞう、別名・神戸屋勇蔵、平親王将門、本名・下村祐蔵)は幕末の侠客、博徒。黒田屋一家(一説には二代目)。神戸屋一家祖、伊勢神戸一家祖。伊勢紙谷一家祖とも。
略歴
- 下総国より伊勢国桑名城下へ流れてきた。自らを平親王将門と名乗り、子分は千人を越すと法螺を吹いた。生まれは伊勢国との説もあり判然としない。
- 子分に後に荒神山の喧嘩の当事者となる穴太徳次郎と神戸長吉がいた。
- 一説には旅籠神戸屋を経営していた時、一人娘が旅客と恋に落ちてその末自殺した。勇蔵は世の中が嫌になったか、四日市を去って桑名に移り、暫くは女郎屋を営んでいたが、ほどなくして法華宗の強烈な信徒となって、題目を唱えることに余生を費やしたともいう。
- また、晩年穴太徳次郎に跡目・地盤を譲り、剃髪し墨衣をまとって何処ともなく立ち去った、という伝承あり。
- 黒田屋一家の二代目で四日市追分に本拠を置いた。黒田屋玉五郎に黒田屋一家を譲ったという説もあり。
- 神戸屋伝左衛門こと長野伝左衛門という侠客の弟分であったという説あり。この場合、神戸長吉は勇蔵ではなく伝左衛門の直系子分であり、老齢の伝左衛門が弟分の勇蔵に任せた土地を、勇蔵が去る前に子分の穴太徳次郎に譲ったが、伝左衛門の直系である神戸長吉は、叔父分の勇蔵が去った後、その場所の所有権を主張したことが荒神山の喧嘩の引き金になったとされる。
神戸長吉の実父とされる博徒も神戸伝左衛門というが関係は不明(同一人物か)。
- 明治6年1月16日没。墓所は桑名市東方町の円妙寺。
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