草野高明

草野高明(くさの たかあき 1922年-1991年)は日本のヤクザ。指定暴力団・初代草野一家総長。二代目工藤連合草野一家総裁。二代目工藤會会長。

略歴

  • 1922年(大正11年)、福岡県小倉生まれ。
  • 草野高明は工藤組に加入後、草野組組長として若頭を務めた。
  • 1950年(昭和25年)、若松市の暴力団・梶原組の組員が、草野高明の弟を刺殺する事件が勃発。
    この事件では梶原組と草野組は和解せず、その後も対立が続く。
  • 1963年(昭和38年)5月、三代目山口組若頭・地道行雄は梶原組と安藤組に盃を下ろし、地道組傘下に収め、同年7月には北九州市の長畠組も傘下に収めた。
  • 同年9月10日、三代目山口組若頭補佐・菅谷政雄が北九州市小倉区に「芦原興行社」を設立し、侵攻を開始した。
  • その後、梶原国弘(後に射殺された元漁協組合長の縁戚)は地道行雄を通して、北九州市での力道山のプロレス興行の実施を三代目山口組組長・田岡一雄に依頼(田岡は日本プロレス協会副会長)、田岡一雄は即座に了承した。
  • これを知った草野高明が梶原国弘へ対抗し、市内での北原謙二の公演開催を決定。
  • 同年10月1日、草野高明の企図した「北原謙二ショー」が開催されたが、閉演後にショーの警備要員として応援に来ていた石松組の組員が、梶原組組員に銃撃され重傷を負う事件が発生。
    この時、福岡県警は700人の警察官を動員し、梶原組と草野組の抗争に備え警戒に当たった。
    これを直接のきっかけとして、1963年、工藤組組員らが山口組系組員らを河原で撲殺したいわゆる紫川事件が発生。
    この事件により、当時・工藤組若頭であった草野高明は殺人教唆に問われて懲役10年の刑に服した。
  • 1966年(昭和41年)、未決拘留中の草野高明は工藤組組長・工藤玄治に相談なしに「工藤組からの脱退、草野組の解散」を発表した。
    これは工藤玄治に累が及ぶのを恐れた苦渋の選択であったが、工藤玄治は激怒し草野高明を破門した。
  • 1977年(昭和52年)、草野高明は刑期が終えて出所したが、工藤組改め工藤会からの出迎えはなく、抗争相手であった三代目山口組組長・田岡一雄が放免祝いをしてくれた。これに感動した草野高明は親山口組となった。
  • 1978年(昭和53年)、草野高明は元草野組組員を束ねて渡世に復帰、「草野一家?」を結成。結成時の草野一家の組員は210名ほどで、工藤会よりわずかに多かった。
  • その後、草野一家と工藤会は激しい抗争を繰り広げた。
  • 1981年(昭和56年)2月25日、稲川会会長・稲川聖城の仲裁により、手打ちが行われ抗争は終結した。
    手打ちの条件は工藤玄治は草野高明の破門を解き、先々には工藤会の跡目を草野高明に譲るというものだった。


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