松阪米太郎

松阪米太郎(まつさかの よねたろう、別名・神谷米太郎、本名・紙谷重太郎または紙谷重次郎、天保12年 - 明治28年7月4日)は幕末の侠客、博徒。伊勢紙谷一家初代。吉良仁吉の子分。

略歴

  • 北伊勢に神谷米太郎なる者あり。一志郡奥津村(美杉村)の出身。
  • 天保13年(1842年)1月15日、紙谷重兵衛の長男に生まれる。
  • 人形使いからヤクザの道に入る。遠州浜松に住んでいたといわれる。
  • 明治7、8年頃、津に移り黒田屋一家喜代造の跡目を継いで藤枝米太郎」と称した。貸座敷「山半」を経営した。
  • のちに松坂に移り妓楼を開業し、松坂米太郎と呼ばれた。
  • 吉良一家四代目・吉良勘造の舎弟分なる神谷米太郎の創始する処にして、米太郎は明治の初年、伊勢の国に赴き、同地の親分黒田屋一家喜代造(祐蔵か)の跡目を相続し、松阪町に住せしが、自己の姓を以って家名とし、神谷一家(紙谷一家)を名乗れり。
  • 寺の過去帳には紙屋重次郎、清水次郎長香典帳には神谷十次郎とある。また東京神山栄五郎墓に世話人伊勢松阪・山本米太郎とある。
  • 久居才次郎六分、米太郎四分の兄弟分。子分には松永富五郎一身田勘五郎塩浜治郎助上野鉄五郎などがいた。
  • 吉良一家二代目親分藤村馬之助寺津間之助か)の食客となる。
  • 当時幡豆郡寺津村に天野と称する有力な半稼師あり、その実子天野良蔵が実父の妾と通じて父の怒りを買う。天野は神谷米太郎に息子良蔵の殺害を依頼する。
  • 神谷米太郎は良蔵に見所ありとして旅費を与え、自己の故郷伊勢に落とし、良蔵を殺害したと偽った。
  • 伊勢に落ちた良蔵は亡魂竹または天野稲次郎と称して北伊勢を抑え、伊賀国にまで勢力を伸ばした。
  • 良蔵は恩人である神谷米太郎を迎えて初代親分として神谷一家を興した。
  • 穴太徳次郎が荒神山観音寺で賭場を開催した際に出席を拒絶した。
  • 荒神山の喧嘩及びその手打式に参加している。
  • 明治28年7月4日没。享年54歳。墓所は三重県松阪市仲町の法久寺。
  • 跡目は天野稲次郎が継ぐ。
  • 三女の「まさ」は映画説明家駒田好洋の妻となった。


【このページの編集依頼】




トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS