共和一家

八代目共和一家(きょうわいっか)は千葉県富里市七栄480-59に本拠を置く暴力団で、指定暴力団・住吉会の二次団体。

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略歴

  • 嘉永元年(1848年)5月、下総国香取郡津宮村に佐原林之助こと坂本林蔵が生まれる。
  • 佐原林之助17歳より諸国を周り、茨城では鯉淵一家の闘いに加勢した。
  • 笹川一家の流れを組むとも言われており、千葉へ戻り佐原町に住み千葉県下同志と図り、地方に災害等ある時は率先して義援する目的を持つ集団を共和會と称して年に一度大会を開くことになり、佐原林之助は総長に推薦された。
  • 共和會は明治25年に結成され、勢力範囲は下総台地の北辺から九十九里平野までを含めていた。
  • 明治21年、佐原林之助が39歳の時に共和一家を興す。当時の縄張りは佐原を中心にかなり点在してあり、東京の小石川、新吉原の親分衆も共和一家に参加していた。有名な親分に飯島磯吉、椿松太郎、中村三吉、色川佐太郎、石井亀太郎、新宮勘次郎、川瀬竹次郎、清水五郎、中村寅吉、田中定二郎、居村五郎、堀越喜助ら。
  • 1888年、その後共和一家と称した。
  • 二代目森盛之助岡沢健三に跡目を譲って引退し、流山市に移って事業で大成し当地で没す。
  • 三代目岡沢健三は1949年に堀越常雄に跡目を譲って引退。
  • 四代目堀越常雄の頃、東京都にも勢力を伸ばした。
  • 昭和61年、共和一家に連なる者が住吉連合会共和聯盟を組織した。また共和聯盟には千葉共和睦(中村忠治)、東京共和睦(共和一家濱中三代目・村井五郎)が作られ会頭を中越善治郎となった。時期は不明であるが共和一家根岸共和一家斎藤松葉会に加入している。
  • 四代目堀越常雄が引退し、中村忠治が五代目を継承。住吉連合会・共和一家となる。
  • 1998年4月未明、関功共和一家六代目を継承。
  • 2014年5月未明、八代目住吉会会長に関功が就任し、総長代行の小川修司が、共和一家七代目を継承した。
  • 2021年4月20日、住吉会組織改革により、関功住吉会代表となり、小川修司が九代目住吉会会長に就任した。
  • 2022年5月31日午前、千葉県いすみ市内の別荘で、住吉会代表の関功が倒れているのを側近が発見し、千葉県内の病院に救急搬送されたが、同日正午過ぎ脳溢血により死亡が確認された。享年76歳。
  • 同年6月3日・4日・5日、共和一家本部で関功の住吉会葬儀が営まれた。3日は東日本の主要組織のトップを中心に多くの親分衆が参列。4日には西日本を中心とした多くの主要組織のトップらが参列した。出迎えには住吉会共和一家ともに後継となった会長・小川修司が中心となり、2日間にわたり全国の首領が集結する盛大な葬儀となった。
  • 同年6月5日、本葬儀最終日は、住吉会の身内だけの会葬とし、盛大に関功を送り出した。
  • 2023年6月、人事改正により、大多和賢治住吉会組織委員長に就任。

系譜

初 代 - 佐原林之助こと坂本林蔵
二代目 - 森 盛之助こと坂本盛之助
三代目 - 岡沢健三こと坂本健三
四代目 - 堀越常雄住吉連合常任相談役・笹川一家五代目)
五代目 - 中村忠治住吉会常任顧問)
六代目 - 関 功(八代目住吉会会長・住吉会代表)
七代目 - 小川修司(九代目住吉会会長)
八代目 - 大多和賢治

八代目共和一家組織図

総長

大多和賢治住吉会組織委員長)

総長補佐

石井康祐住吉会執行相談役)
渡辺 武住吉会執行相談役)

最高幹部

代 行 - 小倉昌明住吉会執行相談役)
理事長 - 本宮浩行住吉会組織委員)
幹事長 - 斎藤 元住吉会組織委員)
本部長 - 田代恵吾住吉会組織委員)
統括長 - 田邉貴裕住吉会組織委員)

委員長

組織委員長 - 宮崎光雄住吉会組織委員)
渉外委員長 - 吉野剛一住吉会組織委員)
懲罰委員長 - 黒川 翔住吉会組織委員)
風紀委員長 - 鵜沢康正住吉会組織委員)
運営委員長 - 田邉孝司住吉会組織委員)
事務局長 - 大澤良二住吉会組織委員)

相談役

特別相談役 - 内田洋康
常任相談役 - 根本隆男
常任相談役 - 山根辰夫
常任相談役 - 横田正恒
相談役 - 原洋一郎
相談役 - 秋葉好弘

常任理事

会田英人
対馬孝行
一木国広
横須賀力也

専任理事

今関 豊
花香則昭
工藤健ニ
中島聖人
行方 勇

過去の組織図



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