祐天仙之助
祐天仙之助(ゆうてん せんのすけ、別名・山本仙之助、清長院由天、1819年-1863年10月15日)は幕末の侠客、博徒、目明し。甲州博徒。三井卯吉子分。
略歴
- 甲州古府中元柳町(現・山梨県甲府市武田)の出身。
- 同所の修験者清長院由玄の倅として生まれるが、父が早くに亡くなったため、甲府元紺屋町行蔵院に預けられ山伏としての修行を積んだ。また甲府久保町玄法院の祐宣法印は早くから祐天の人物を見込み、祐天を自分の跡継ぎに指名するほど可愛がった。しかし祐天は天保12年(1841年)、元柳町の要法寺との不法出入りを皮切りに、方々で暴力沙汰を起こし始める。
- 嘉永7年(1854年)には、下積翠寺一村から訴えられ、江戸勘定奉行への喚問を受けたが、この時分には甲府柳町の大親分三井宇吉の子分となっていた事から、宇吉によって、これらのいざこざを不問に付された。以降、宇吉の代貸となって各地の賭場を差配し、同じく八代の国分三蔵とは兄弟分の契りを結んだ。
- この頃、目明し(警吏)を務めた宇吉にその道の心得を仕込まれ、甲府の劇場・亀屋座の座元亀屋与兵衛?とも親しく交際し、旅役者や江戸の歌舞伎俳優らを保護し、彼らと親交を結んだ。
- 一方、市川大門の博徒である鬼神喜之助、小天狗亀吉兄弟とは、富士川を巡る利権の関係から仇敵の間柄となる。また弘化3年(1846年)には、津向文吉一家と共に鰍沢で竹居安五郎と戦い、安五郎の用心棒桑原来助を殺害したことで、竹居一家と険悪な仲となったといわれている。
- 嘉永6年(1853年)7月、兄弟分の国分三蔵と竹居安五郎の子分人斬り政右衛門?との籠坂峠の決闘に、三蔵の助っ人として加わる。この喧嘩は役人の介入により水入りとなったが、逃走の過程で駿州吉原宿に逗留した際、祐天は懸想した遊女を連れ出し、番人十数人と斬り合いの末捕縛された。しかしこの行動が侠客として評判を呼んだ。
- 嘉永7年(1854年)、再び、駿河国吉原宿へ赴き、鬼神喜之助の党と決闘し打ち負かす。
- 安政3年(1856年)には、甲州塩山恵林寺の「信玄忌」に合わせた祭礼で、喜之助の盟友吉原留吉とその子分3名を単身で討ち果たした。
- 安政4年(1857年)、前年の因果により、親分であった三井宇吉が、小天狗亀吉率いる11名の集団に討たれると、敵を討つため東海道を探索する。やがて伊勢の白子で亀吉以下3名を討ち果たし、その首を宇吉の墓前に供えたという。
- 安政5年(1858年)、宇吉の勢力をを引き継ぎ、甲州の大天窓の立場に立つ。この頃、勝沼宿に転居し、竹居安五郎と争う用意を整えた。
- 文久2年(1862年)、黒駒勝蔵を欺いて他国へ出奔させ、その隙に、国分三蔵、犬上郡次郎、さらに信州目明しの岡田滝蔵と計って、竹居安五郎の捕縛に成功する。
- 以降、任侠稼業を罷めるべく、弟分の菱山佐太郎と共に江戸へ行き、浪人隊に入るが、桑原来助の遺児大村達尾も浪人隊で一緒であった。
- 文久3年(1863年)10月15日、大村とその友人藤林鬼一郎?によって討たれた。行年45歳。
墓所は東京都墨田区太平の法恩寺、戒名は本哲院宗勇智山居士。
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