三井卯吉

三井卯吉(みついの うきち、別名・大天窓(おおかしら)、三井宇七、両国屋宇吉、猿屋勘助。本名・三井宇七郎、1798年―1857年)は幕末の侠客、博徒、目明し、興行師、甲州博徒。

略歴

  • 山梨県甲府市柳町の人。三井氏は武田信玄の時代から甲府牢番を務め、宇七郎は代十二代目に当たる。父は庄蔵。弟に三井健次郎がいた(ただし戸籍上は「孫」とされる)。
  • 牢番を一年で退役した後は江戸へ出て一端の通り者として名を上げ、また「目明し」の修養も収めた。やがて甲府へ帰り、「両国屋宇七郎」の名で甲府勤番雇いの目明し頭を務める。
  • 一説に甲州の香具師の帳元「猿屋ノ勘助」と同一人物とも言う。
  • 往時は関東侠客界切っての大親分であり、自身の居住地である甲府柳町一丁目に遊女置屋 両国屋(後に「三井楼」)を開き、十手取り縄の威光も加わって広く勢力を張った。その結果、「卯吉が出ればどんな喧嘩もすぐに収まる」甲府城下の「すてきに良い顔」と賞揚された。
  • 実際、卯吉は博徒の頭兼目明し頭として、甲州道中(甲州街道)柳町宿の問屋加藤家と繋がりを持ち、宿の治安維持、遊女の調達、芸人の差配などに尽力、甲府の裏の顔役として君臨した。
  • 同じ甲州道中の岡っ引頭兼遊女屋主人の 田中屋万五郎とは兄弟分の間柄であり、卯吉死亡直後には万五郎から下手人への執拗な追跡が行われている。
  • 竹居村の竹居安五郎、市川大門村の鬼神喜之助小天狗亀吉兄弟らと敵対する。一方腹心の子分に祐天仙之助国分三蔵御殿場伝蔵?らがいた。
  • 柳町を中心に城下各地に縄張りを持ち、賭場を開いたが、時と場合によって(対立する博徒や兇状手配の者が来る際には)十手の威光を示し、役人と結託して召捕りに従事した。
  • 1857年(安政4年)正月4日、甲府城下の山田町で、妾のお霜と共に家にいたところ、小天狗亀吉ら11名に踏み込まれ殺害された。
  • 同年15日、16日、卯吉の子分26人が東海道を下手人探索の名目で「鑓、鉄砲、刀、長脇差所持」のまま横行し、吉原宿(静岡県富士市)、原宿(沼津市)の住人から江川代官所へ批難の投書が出されていることを示す書類が甲府勤番へ提出されている(「江川文庫史料」)。
  • 元柳町出生で勝沼に縄張りを持つ祐天仙之助は卯吉を実の父の様に敬慕していた。
    後に祐天は、卯吉の下手人を探し出し、勢州白子で単独でこれらを討ち取ったとされる。
  • 卯吉はまた一説に、浅草の香具師の間で両国屋卯吉の名で的屋の祖とされている。
  • 卯吉の正妻によって建立された墓石が甲府市内法華寺にあったが、既に撤去、破砕された。

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