幡随院長兵衛
幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ、本名・塚本伊太郎(つかもと いだろう)、1622年 - 1650年5月13日または1657年8月27日)は江戸前期の侠客、町奴、口入れ屋。
略歴
- 元和8年(1622年)、大河野の日在城主である鶴田因幡守勝の家臣・塚本伊織の息子として現在の佐賀県唐津市相知町久保地区に生まれる。
- 父の主君の因幡守勝が竜造寺隆信に攻められて城を追われたために、父は一子伊太郎を連れて江戸へと向かったが、途中下関で病死。
- 伊太郎は父の遺命で、幡随院の和尚を頼って江戸に上がる。江戸に出てきて最初に住んだのが浅草にある幡随院門前町(現在の台東区神吉町)であった。
- いつ頃長兵衛と改名したのかは不明であるが、幡随院門前町の長屋に住んだ。一説には幡随院で修行したとも、幡随院住職の子ともいわれる。
- その後、同じ浅草の花川戸(現在の台東区浅草花川戸町)に住居を移した。
- 強きをくじき弱きを助ける町奴として有名になった。
- また、浅草で奉公人を周旋する口入れ屋を営んだ。妻は口入れ屋の娘・きん。
- 配下に唐犬権兵衛、放駒四郎兵衛、夢市郎兵衛らがおり、町奴の頭領として旗本奴と対立する。
- 対立していた旗本奴の頭領・水野十郎左衛門(水野成之)にこれまでの遺恨を水に流し仲良くなりたいと呼び出される。水野の罠であることがわかっており、子分らは行くのを止めたが、「怖がって逃げたとあっては名折れになる。人は一代、名は末代。」との言葉を残し屋敷に向かい誅殺された。
- 侠客の元祖といわれ、「極付幡随長兵衛」など歌舞伎や講談の題材となった。
- 慶安3年(1650年)没。墓は東京都台東区東上野の源空寺。佐賀県唐津市相知町久保に幡随院長兵衛誕生地の碑がある。
検索用
幡随院長兵衛、幡随院長兵衞、幡隋院長兵衛、幡隋院長兵衞、幡隨院長兵衞、幡隨院長兵衞
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