髙山登久太郎
髙山登久太郎(たかやま とくたろう 本名・姜外秀 1928年4月26日-2003年6月15日)は日本のヤクザ。四代目会津小鉄会長。
人物
- 1928年(昭和3年)4月26日、韓国釜山で高山文吉、趙又奉夫婦の長男として生まれ、その後は大阪で育った。
- 韓国慶州市にある日本人戦争未亡人の収容施設「ナザレ園」(内鮮一体の国策で韓国人男性と結婚して戦後、未亡人となり韓国に取り残された孤老の日本人女性イルボン・ハルモニが収容されている養老施設)に度々慰問に訪れ、慈善の寄付を続けるなど、世に隠れた篤志家(社会奉仕や慈善活動家)でもあった。
現地新聞でも髙山登久太郎の隠れた慈善行為は「イルボン・カンベ(日本ヤクザ)の義侠」と報じられたが、本人は「ひけらかすもんと違う」として自ら語ることはなかった。
- 在日本大韓民国民団中央本部中央委員、滋賀韓商常任顧問も務めた。
- 「鉄(くろがね)の意思を持った親分」と評された人物。
略歴
- 戦後まもなく24歳の時に、滋賀県大津市の貸元で中川組組長・中川芳太郎?の盃を受けて渡世入り。
- 盃を受けて以降、髙山登久太郎はどんな悪天候でも1日も休みなく毎朝、中川芳太郎?の家に通い、御用伺いをした。
- 1年後、25歳で中川組の若頭に抜擢される。
- 組事でジギリをかけて服役。
- 42歳で中川組二代目を継承。
- 中島連合会に加入。
- 1986年(昭和61年)7月、会津小鉄会の四代目を継承し、同時に組織改革に着手。
組織名称を会津小鉄会から会津小鉄に改称し、理事長や幹事長の肩書きを廃止。博徒古来の若頭、舎弟頭、小頭などの役職制に戻した。
- 1984年8月5日から1989年3月30日にかけて山口組と一和会の間に起こった「山一抗争」終結のため、稲川会総裁・稲川聖城と会津小鉄総裁・図越利一の意を受け、稲川会会長・石井隆匡と共に奔走した影の功労者の一人。
髙山登久太郎は主に一和会側の交渉を担当し、一和会首脳に対し「どっちも田岡一雄親分の子、これはあなた方が勝っちゃいかん喧嘩や、手仕舞いのこと考えとくんなはれ」と諭し、3年近くに渡り粘り強く交渉を進めた。
- 山一抗争終結後、一和会は解散したが、服役していた元一和会幹事長・佐々木道雄が出所した際には、髙山登久太郎が放免祝いをし、佐々木道雄が田岡一雄の墓に詫びたいとの意を受け、五代目山口組組長・渡辺芳則に電話を入れ了承を得た。
- 1989年11月、「会津小鉄会館」竣工。
- 1992年(平成4年)7月27日、会津小鉄が暴対法に基づく「指定暴力団」に指定されると、憲法違反を主張し「我々は伝統的な任侠団体であって、言われるところの暴力団ではない」と反論、取り消しを求めて訴訟に挑んだが敗訴。
- 不動産業の実子・髙山誠賢(後の八代目会津小鉄会会長)が計画した、石垣島リゾート開発に数百億円を投資したが失敗して大損失を出し、人脈や自身の体調も総崩れした。
- 1997年(平成9年)2月、会津小鉄を若頭・図越利次に譲り引退した。
- 2003年(平成15年)6月15日、死去。
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