小林会
四代目小林会(こばやしかい)は東京都中央区銀座7-7-19 福田總業ビルに本部を置く暴力団で、指定暴力団・住吉会の二次団体。
略歴
- 1946年(昭和21年)東京都目黒区出身で初代会長の小林楠扶は、16歳で高橋輝男率いる大日本興行で渡世入り。
- 1956年(昭和31年)3月6日、浅草妙清寺事件で高橋輝男が死去。小林楠扶は栃木県栃木市惣社町に所在する宇都宮刑務所に服役中であった。刑務所から出所後、大日本興行から了承を得て独立し、東京都中央区銀座に小林会を結成。
- 1961年(昭和41年)10月13日、東京都大田区雪谷に右翼団体「楠皇道隊」を結成し、その後楠皇道隊本部を東京都中央区銀座7-2-2に移転させ、団体の名称を「日本青年社」と改め、団体会員も全国で数千名を超え国内屈指の右翼団体へ変貌した。
1978年(昭和53年)8月11日、中国共産党の及び人民解放軍の進出に危機感を感じた日本青年社が、中国国家対日本青年社との個別的衝突を覚悟した上で尖閣諸島上陸決死隊を結成し、尖閣諸島に全乗組員が無事に上陸、持参した資材で柱型の点滅式灯台を建設に着手、同13日に建設が完了し点灯試験に成功した。この灯台の維持管理費は全て日本青年社が負担した。
- 1989年(平成元年)5月、住吉連合会本部長・小林楠扶は、寄居一家寄居真会会長に舎弟盃を与えた。しかしこの盃を反故し稲川会に移籍する話が浮上した事で、これを切っ掛けに、住吉連合会と寄居一家の抗争事件が勃発した。
- 1990年(平成2年)1月11日、初代会長の小林楠扶は、住吉連合会副会長、理事長代行、本部長を歴任したが、持病の悪化により59歳で死去。
- 同年4月、小林楠扶の後継者として、若頭の福田晴瞭が小林会二代目会長に就任。
- 1998年(平成10年)4月、福田晴瞭が住吉会七代目会長となり、小林会三代目を小林忠紘が継承した。
- 2005年(平成17年)日本青年社が尖閣諸島に建てた柱型の点滅式灯台を、正式な手続きで日本政府に譲渡された。
- 同年5月、福田晴瞭が住吉一家七代目総長就任。
- 2014年(平成26年)4月、住吉会七代目会長を八代目関功に譲り、福田晴瞭は最高顧問に就任。
- 2024年(令和6年)5月16日、三代目会長の小林忠紘が持病の悪化により死去した。
- 同年5月21日、組織運営は合議制で相良福一が代表となり、厳戒態勢の中、東京都新宿区高田馬場の寺院にて小林家葬儀が行われた。
- 同年10月17日、九代目住吉会会長・小川修司と、大塩健一との親子縁組盃儀式が執り行われた。
- 2025年(令和7年)4月1日、住吉会最高顧問・住吉一家七代目総長の福田晴瞭が全ての要職を辞任、並びに謙譲し完全に引退。
小林会系譜
初 代 - 小林楠扶(住吉連合会本部長)
二代目 - 福田晴瞭(住吉会七代目会長)
三代目 - 小林忠紘(住吉会常任顧問)
四代目 - 大塩健一
四代目小林会組織図
会 長 - 大塩健一(住吉会直参)
最高顧問 - 相良福一(住吉会常任相談役)
常任顧問 - 上田 明(住吉会執行相談役・上田組組長)
渉外委員長 - 大矢安彦(住吉会組織委員・大矢組組長)
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