盛力健児
盛力健児(せいりき けんじ、本名・平川茂(ひらかわ しげる)、1941年5月29日- )は日本の元ヤクザ。元指定暴力団・六代目山口組若中、盛力会会長。
略歴
- 1941年、香川県に生まれる。
- 1957年、中学校を卒業後、靴下工場に就職。
- 17歳の頃、地元の宮本組に加入した。
- 1960年、大阪へ移住。南道会の岡本正雄に客分として1ヶ月の間預かってもらった。
- 1961年頃、三代目山口組・一心会・西崎組へ加入。西崎組若頭を務めた。
- 1966年頃、一心会が解散し愚連隊となった。
- 1967年5月、三代目山口組・山健組若頭であった三輪正太郎の仲介で山健組に加入。山健組若頭補佐に起用され、同時期に盛力会を立ち上げた。
- 山健組に加入する直前に盛力健児が拳銃を貸していた仲間が賭場荒らしで殺人を犯してしまい、強盗幇助で逮捕され懲役6年を受けて京都刑務所に服役した。
- 1973年4月、出所。一旦は山健組若頭補佐を降りたがその後に若頭補佐に復帰。山健組組長・山本健一のボディーガードも務めた。
- 1978年8月、三代目山口組と二代目松田組との間に「大阪戦争」が勃発、その過程で三代目山口組組長・田岡一雄が撃たれた報復として、盛力会組員が、大阪市住吉区の銭湯で二代目松田組・村田組若頭補佐・朝見義男を射殺した。
盛力健児はこの事件の首謀者とされ逮捕され、懲役16年を受けて宮城刑務所に服役した。
「大阪戦争」を参照。
- 1989年4月、山健組の二代目を継承していた渡辺芳則が五代目山口組を継承。
- 同年6月、盛力健児は内部昇格により獄中で五代目山口組直参となった。
- 1996年1月、宮城刑務所を出所した。
- 2004年、中国河南省登封市にある少林武術の総本山・嵩山少林寺の素喜大師から弟子と認められた。
- 2005年、六代目山口組が発足。盛力健児は引き続き六代目山口組若中となった。
- 2009年2月、六代目山口組舎弟・後藤組組長・後藤忠政の処分騒動に巻き込まれる、六代目山口組執行部に批判的であった盛力健児は六代目山口組を除籍され、引退した。盛力会は解散し、地盤は倭和会が引き継いだ。
- 2013年、著書『鎮魂 ~さらば、愛しの山口組』を出版した。
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