小林楠扶
小林楠扶(こばやし くすお 1930年10月21日-1990年1月11日)は日本のヤクザ、国士・右翼。住吉連合会(後の住吉会)本部長、小林会会長。右翼団体・日本青年社?初代会長。
人物
- 小林は住吉連合会では副会長、理事長代行、本部長を歴任した大物ヤクザで国士である。
- 安藤組大幹部・花田瑛一?とは、帝京商業学校(後の帝京大学高校)時代から親友だった。
- ヤクザ者なら道の端を歩け、日本青年社の会員なら堂々と道の真ん中を歩け。
- 中国が日本に政治的圧力を強める最中、尖閣諸島に上陸し無償で灯台を建てたのは小林とその一員である。後に正式な手順で無償国有化された。
略歴
- 1930年(昭和5年)10月21日、東京目黒に生まれる。両親はともに広島出身。戦後、祐天寺の輝こと高橋輝男に憧れて大日本興行系のヤクザになる。
- 1956年3(昭和31年)月6日、浅草妙清寺事件で高橋輝男が死去。小林楠扶は栃木県栃木市惣社町に所在する宇都宮刑務所に服役中であった。出所後、大日本興行から独立し銀座に小林会を結成、小林が26歳である。
- 1961年(昭和36年)10月13日、東京都大田区雪谷に右翼団体「楠皇道隊」を結成。同年、楠皇道隊本部を東京都中央区銀座7-2-2に移転。
- 1969年(昭和42年)3月18日、楠皇道隊を発展解消させ「日本青年社?」を結成、初代会長に就任。 同日、明治神宮で290名が参加して結成式を行い、その後、ホテルニューオータニの芙蓉の間で結成披露宴を開催した。後に日本全国で数千名を超える団体となり日本屈指の右翼団体へとなった。また現役国会議員もその方向性にに賛同する議員も多数存在した。
- 1978年(昭和53年)8月11日、中国共産党及び人民解放軍の進出に危機感を感じた日本青年社が、中国共産党国家対日本青年社との国対個別的衝突を覚悟した上で、尖閣諸島上陸決死隊を結成し尖閣諸島に全乗組員が無事に上陸、その際に持参した資材で柱型の点滅式灯台建設に着手、同13日に建設が完了し点灯試験に成功した。この灯台の維持管理費は全て日本青年社が負担した。
- 1986年(昭和61年)12月9日、フライデー襲撃事件のビートたけし(北野武)に対し街宣活動強行、所属先の太田プロは一切何もしなかった。
- 1988年(昭和63年)4月未明、東映映画のプロデュースをしていた俊藤浩滋が仲裁し、ビートたけしが単独で小林と会い謝罪し和解した。しかし16年間所属した太田プロに解雇されオフィス北野設立した。余談だが、俊藤浩滋は三代目山口組若頭補佐・菅谷政雄(通称:ボンノ)の幼少からの友人である。また小林も過去に、東京都港区赤坂に存在した高級クラブ「ニュー・ラテンクウォーター」にて、菅谷政雄本人と小林の右腕的存在の大幹部で直井二郎とトラブルになった事が縁で、小林は菅谷や俊藤とも知り合うきっかけにもなった。小林と菅谷両者円満に和解している。
- 同年(昭和63年)6月、小林は、同社が尖閣諸島上陸10周年を記念してアルミ軽合金のやぐら型の灯台に改築しバッテリーも太陽電池式とした。
- 1989年(平成元年)5月、住吉連合会本部長・小林楠扶は、寄居一家寄居真会会長に舎弟盃を与えた。しかしこの盃を反故し稲川会に移籍する話が浮上した事で、これを切っ掛けに、住吉連合会と寄居一家の抗争事件が勃発した。
- 1990年(平成2年)1月11日、小林は持病の悪化で肝硬変の合併症により59歳の若さで死去。
- 1996年(平成8年)小林の生前の意志を引き継ぎ、日本青年社有志一同が、尖閣諸島北小島に、より強固な柱型灯台を建設した。
- 2005年(平成17年)日本青年社が尖閣諸島に建てた柱型の点滅式灯台を、正式な手続きで日本政府に譲渡され国有化した。完全無償である。
- 西海家五代目・菅原孝太郎、西井会?初代・西井章、極東飴徳宗家四代目・永持英哉は兄弟分。
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