#author("2021-08-30T16:44:18+09:00;2021-04-19T18:15:02+09:00","","")
* 極政組 [#jb262fa9]
&size(16){''四代目極政組''(きょくせいぐみ)は[[福岡県中間市中鶴1-25-12:https://maps.app.goo.gl/gu6evYBgQPrYV6PJ7]]に本部を置く暴力団で、指定暴力団・五代目[[工藤會]]の二次団体。旧[[極政会]]。};
#ref(工藤會/工藤会.jpg,right,nowrap,画像)
** 系譜 [#g718aec0]
初 代 - [[溝下秀男]](三代目[[工藤會]]会長)
二代目 - [[江藤允政]](三代目[[工藤會]]執行部組織委員長)
三代目 - [[今田雄二]](五代目[[工藤會]]常任相談役)
四代目 - [[内蔵成喜八]]
** 略歴 [#g718aec0]
-1970年、[[溝下秀男]]が、24歳で[[溝下組]]を結成した。
-1979年、[[草野一家]]へ合流し、のちに若頭となる。
-1990年、三代目[[工藤會]]の会長を襲名した。 
-2000年、四代目[[工藤會]]の総裁に就任した。
-2008年7月、[[溝下秀男]]が死去した。
-2012年7月8日、筑紫野市にて、[[江藤充政]]・元[[極政組]]組長が3発の銃弾を至近距離から撃たれ射殺された。引退後の行動がその引き金となったと云われる。かねてより[[工藤會]]内部において旧[[草野一家]]系と旧勢力[[工藤会]]系が対立関係があった。
[[草野一家]]と[[工藤會]]は抗争を重ねたが、その後、恩讐を超えて大同団結して工藤連合草野一家を結成する。
[[極政組]]は、[[工藤會]]三代目会長で元[[草野一家]]若頭の[[溝下秀男]]が興した組で、もとは[[極政会]]という名称であった。[[江藤充政]]は、 その溝下三代目会長の側近中の側近で警護隊長を務めていたが、その後、[[江藤充政]]は収監中に除籍処分になり引退させられた。
溝下が急逝してから、旧[[草野一家]]系の有力者が次々と何者かにより、殺害されていく。
[[篠崎一雄]]([[篠崎組]]組長:射殺)、[[安高毅]]([[津川組]]相談役:射殺)、[[徳本竜吾]]([[徳竜組]]組長:射殺)と続く中、江藤が組長を務める[[極政組]]に衝撃が走る。
当時、2年間の服役をもう少しで終えようとする[[江藤充政]]は、[[極政組]]の二代目を突然引退、若頭だった[[今田雄二]]が三代目[[極政組]]組長となった。
長期服役ならともかく、代替わりを服役中に行うのは異例中の異例であり、通常は、当代が関係者に十分な根回しをしてから行われるのが通例である。
この代替わりが発表される直前の8月に江藤と親しい篠塚が射殺されている。
しかも、一連の事件中、[[極政組]]の主要幹部12名は、組を脱退しようとした組員を集団で暴行したとして、逮捕監禁致傷容疑で全員逮捕されている。
つまり、幹部が社会不在、まして当代が服役中に代替わりが行われた。
因みに、引退させられた江藤に対する[[工藤会]]の対応は、「破門」である。
実質的な[[田中組]]である[[工藤会]]は、江藤に無理やり引退させておいて破門にした。
[[溝下秀男]] 三代目会長亡くなり、[[草野一家]]出身で三代目[[工藤會]]会長代行などを務めた[[天野義孝]]も亡くなるなど[[草野一家]]出身の大物親分が鬼籍に入ったことも無縁ではないだろう。
-一連の[[工藤會]]内部組織による粛清が頻発したのは実効支配を強める旧[[工藤会]]系[[田中組]]によるものである。

** 組織図 [#efe00049]
組 長 - [[内蔵成喜八]](五代目[[工藤會]]理事長補佐)
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