#author("2020-08-28T14:28:32+09:00","","")
*小金井小次郎 [#qfc1ce74]
''小金井小次郎''(こがねいの こじろう、本名:関小次郎)は幕末から明治の侠客、博徒。[[小金井一家]]初代。[[新門辰五郎]]の弟分。
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* 小金井小次郎 [#qfc1ce74]
''小金井小次郎''(こがねい こじろう、こがねいの こじろう、本名・関小次郎、1818年 - 1881年)は幕末の侠客、博徒。[[小金井一家]]初代。
** 略歴 [#n8358937]
#ac(h,open){{
-東京都小金井市の人。
-1967年から1971年まで東京都小金井市の市長を務めた関綾二郎は小金井小次郎の曾孫。

-文政元年(1818年)、武蔵国北多摩郡小金井(下小金井村か)の名主関勘左衛門(または勘右衛門)の次男として生まれる。父勘左衛門の代には既に名主ではなかったとも。兄は関虎之助。
-天保11年(1840年)、武蔵二塚明神前の小平堀端の[[田折与惣兵衛]]一家との大喧嘩で名をあげ、度重なる賭博開帳の罪で嘉永2年(1849年)三宅島送りとなる。
-三宅島流人帳に安政3年4月12日、博奕之御科にて遠島、慶応4年5月6日、御赦免仰渡候、下小金井村無宿、真言宗小次郎38歳とある。
-明治元年(1868年)、大赦で小金井へ帰り、甲州街道で飯盛り茶屋を営む。
-府中の大親分[[藤屋万吉]]の子分となり、跡目を継ぐ。
島帰りの顔役として羽振りをきかせて東は新宿、南は祭礼で賑わう川崎大師までと縄張りも広く、子分は1200人余りといわれた。
-弘化3年(1846年)、佃寄場服役中に大火から油倉を守り、神社の再建にも力を尽くすなど義侠の行為も少なくなかった。
-[[新門辰五郎]]と兄弟分または辰五郎の舎弟、甲州の[[津向文吉]]と兄弟分。
-[[高萩万次郎]]や[[大場久八]]の舎弟とも。
-小次郎四天王は[[四軒寺藤蔵]]、[[矢端藤五郎>矢畑藤五郎]]、[[田無徳蔵]]、[[高井戸勇次郎>饅頭屋勇次郎]]
-[[一ノ宮ノ万平]]の子分東中野の[[堀口才治郎>東中野小才次]]墓に小金井小治郎ほか六名の刻名あり。
-小金井神社狛犬に願主関小治郎、神山の[[土屋栄五郎]]墓に世話人小金井村玉川屋小次郎とある。
-明治14年6月5日死去。64歳(または65歳)。墓所は東京都小金井市中町の西念寺前の鴨下家墓地。
-小次郎墓には子分二百二十名の刻名あり。
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** 検索用 [#q07fd985]
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小金井小次郎、小金井小治郎、小金井村小次郎、小金井村小治郎、玉川屋小次郎、玉川屋小治郎、小金井ノ小次郎、小金井ノ小治郎、小金井村ノ小次郎、小金井村ノ小治郎、玉川屋ノ小次郎、玉川屋ノ小治郎、関小次郎、関小治郎、關小次郎、關小治郎
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