#author("2025-10-27T19:23:56+09:00;2025-10-27T08:23:50+09:00","","") #author("2025-10-27T19:24:29+09:00;2025-10-27T08:23:50+09:00","","") * 山竹抗争 [#q21d9a5d] ''山竹抗争''(やまたけこうそう)とは1989年(平成元年)7月3日から始まり1990年(平成2年)に鎮静化に至った、五代目[[山口組]]と、四代目[[山口組]]組長・[[竹中正久]]の実弟・[[竹中武]]率いる[[竹中組>竹中組(岡山県)]]との暴力団抗争事件。 ''山竹抗争''(やまたけこうそう)は、1989年(平成元年)7月3日から始まり1990年(平成2年)に鎮静化に至った、五代目[[山口組]]と、四代目[[山口組]]組長・[[竹中正久]]の実弟・[[竹中武]]率いる[[竹中組>竹中組(岡山県)]]との暴力団抗争事件。 ** 山竹抗争勃発まで [#t352c09b] -[[竹中組>竹中組(岡山県)]]と[[山口組]]の確執は、既に「[[山一抗争]]」の頃から生じていた。 三代目[[山口組]]・[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組長から[[山口組]]の四代目を継承した[[竹中正久]]の四代目襲名に反発し、[[山口組]]を脱退して設立された[[一和会]]により[[竹中正久]]が殺害され、[[竹中正久]]の実弟・[[竹中武]]が二代目組長に就いていた[[竹中組>竹中組(岡山県)]]は[[一和会]]への報復を行っていった。 -「[[山一抗争]]」が激化する中、[[稲川会]]が中心となり[[山口組]]と[[一和会]]の仲裁が進められ、[[山一抗争]]終結に動く[[山口組]]執行部と、あくまで[[一和会]]への報復を継続する[[竹中組>竹中組(岡山県)]]との間に考えの齟齬が生じていた。 [[山口組]]が[[一和会]]との抗争終結を決定後も、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]は[[山口組]]離脱を匂わせつつ、配下幹部が[[一和会]]会長・[[山本広]]を襲撃する報復を行い、その際に警備の警察官にまでケガを負わせるなど、[[山口組]]にとって厄介な存在となる。 -1988年(昭和63年)6月、[[山口組]]の五代目を誰が襲名するかが問題となる([[山口組五代目跡目問題]])。 -1989年(平成元年)2月27日、定例総会で[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組長・[[竹中武]]が[[山口組]]若頭補佐に就任。 -同年4月20日、[[山口組]]緊急幹部会が開かれ、五代目の人選が議論された。 この席では[[竹中武]]は態度を保留し、四代目[[山口組]]若頭で二代目[[山健組]]組長・[[渡辺芳則]]と、組長代行の[[中西組]]組長・[[中西一男]]が話し合った上で、[[中西一男]]が五代目の立候補を取り下げ、[[渡辺芳則]]の五代目擁立が決定した。 -同月下旬、跡目問題に決着をつけた[[渡辺芳則]]は、神戸市花隈の[[山健組]]本部事務所で、本部長・[[岸本組]]組長・[[岸本才三]]と、[[近松組]]組長・[[近松博好]]と会合を行い、[[一和会]]への報復を辞さない[[竹中武]]を[[山口組]]に留め置くことを確認。 その上で[[竹中武]]の連れ戻しを協議したが、若頭補佐の[[宅見組]]組長・[[宅見勝]]がこれに反対。 [[宅見勝]]は[[心腹会]]会長・[[尾崎彰春]]に依頼して[[岸本才三]]に[[竹中武]]の連れ戻しを断念させ、結局のところ[[渡辺芳則]]も[[宅見勝]]の考えに同調して[[竹中武]]の連れ戻しは白紙となり、[[竹中武]]の[[山口組]]脱退は濃厚となった。 -同年5月10日、[[山口組]]緊急執行部会で[[宅見勝]]の[[山口組]]若頭就任が内定。この執行部会を[[竹中武]]は欠席していた。 -同月18日、[[渡辺芳則]]は[[山口組]]本家で、舎弟24人、若衆45人と盃直しの儀式を行い、ここで[[尾崎彰春]]の実子・[[尾崎勝彦]]ら4人が新たに直参となった。 一方で、[[竹中武]]、二代目[[森川組>森川組(愛媛県)]]組長・[[矢嶋長次]]、[[牛尾組]]組長・[[牛尾洋二]]、[[森唯組]]組長・[[森田唯友紀]]の4人が欠席した。 -同月27日、[[渡辺芳則]]は[[山口組]]の新執行部を発足させた。 新設の最高顧問に[[中西一男]]、若頭補佐に[[英組]]組長・[[英五郎]]、[[倉本組>倉本組(山口組)]]組長・[[倉本広文]]、[[黒誠会]]会長・[[前田和男]]、[[弘道会]]会長・[[司忍]]、[[芳菱会]]総裁・[[滝澤孝]]、舎弟頭に[[益田(啓)組]]組長・[[益田啓助]]、舎弟頭補佐に[[章友会]]会長・[[石田章六]]、[[大石組>大石組(岡山県)]]組長・[[大石誉夫]]、[[西脇組>西脇組(神戸市)]]組長・[[西脇和美]]、舎弟に[[嘉陽宗輝]]、[[桂木政夫]]、[[木村茂夫]]が就いた。 [[岸本才三]]は舎弟となり総本部長に留任、副本部長に[[野上哲男]]が就いた。 また顧問に[[益田佳於]]・[[小西音松]]・[[伊豆健児]]が就いた。 -同年6月5日、[[山口組]]定例会で、[[竹中武]]・[[矢嶋長次]]・[[牛尾洋二]]・[[森田唯友紀]]の[[山口組]]脱退が発表された。 -同月25日、他団体に対し「五代目山口組幹部一同」の名義で、「[[竹中武]]、[[矢嶋長次]]、[[森田唯友紀]]、[[牛尾洋二]]は今後、五代目[[山口組]]とは何ら関係なし」とする文書を送付した。 -先代・[[竹中正久]]の位牌の取り扱いと、[[山口組]]の守り刀は文化庁に登録されていたため、新たに[[渡辺芳則]]の名前で登録しなければ、銃砲刀剣類所持等取締法第14条違反となるため、守り刀の譲り渡しについては手間がかかった。 -6月4日、位牌と仏壇については[[岸本才三]]・[[西脇和美]]と[[佐藤組>佐藤組(山口組)]]組長・[[佐藤邦彦]]が[[竹中武]]を訪問して懇請の上で受け取った。 -同月25日、[[山口組]]の守り刀については、最高顧問・[[中西一男]]と、[[倉本広文]]、[[前田和男]]の両若頭補佐、舎弟頭補佐・[[石田章六]]が[[竹中組>竹中組(岡山県)]]を訪問し、当座として[[山口組]]代紋の「山菱」が施された純金製三つ重ねの金杯を[[竹中組>竹中組(岡山県)]]より[[渡辺芳則]]に送った。 -同年7月5日に守り刀相続の書類が整ったことから、[[竹中武]]の使いが三代目[[山健組]]組長・[[桑田兼吉]]に届けている。 ** 山竹抗争 [#cf5227d3] -1989年(平成元年)7月3日夜、岡山市新京橋の[[竹中組>竹中組(岡山県)]]事務所が走行中の車から2発銃撃を受け、翌4日には姫路市の病院の玄関ロビーで治療を受けた[[牛尾組]]組員が、2人組の男から3発の銃弾を撃ち込まれた。 -同月18日、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]は[[山口組]]の「山菱」の代紋を降ろし、新たに[[山口組]]と酷似した菱形の代紋を掲示した。 -同月20日、神戸市灘区の本家2階の80畳敷きの大広間で、[[渡辺芳則]]の[[山口組]]五代目襲名相続式典が執り行われた。 媒酌人は[[大野一家>大野一家(山口組)]]・[[義信会]]会長・[[津村和磨]]、後見人は[[稲川会]]総裁・[[稲川聖城]]、取持人は[[稲川会]]会長・[[石井隆匡]]、奔走人は[[稲川会]]理事長・[[稲川裕紘]](後の三代目[[稲川会]]会長)。 推薦人は四代目[[会津小鉄会]]総裁・[[図越利一]]、[[松葉会]]会長・[[中村益也]]、四代目[[今西組]]組長・[[辻野嘉兵衛]]、三代目[[森会>森会(心腹会)]]会長・[[平井龍夫]]、二代目[[大日本平和会]]会長・[[平田勝義]]、[[俠道会]]会長・[[森田幸吉]]、[[工藤連合草野一家]]総裁・[[工藤玄治]]、四代目[[小桜一家]]総裁・[[神宮司文夫]]、[[住吉連合会>住吉会]]総裁・[[堀政夫]]。 見届人は、[[導友会]]、[[愛桜会]]、四代目[[砂子川組]]、三代目[[倭奈良組]]、三代目[[互久楽会]]、二代目[[大野一家]]、三代目[[南一家]]、四代目[[佐々木組]]、[[諏訪会]]、二代目[[松浦組]]、三代目[[旭琉会]]。 霊代は[[中西一男]]。 しかし、兵庫県警が[[山口組]]五代目襲名式阻止の方針を打ち出したため、実際に[[山口組]]五代目襲名相続式典に出席したのは、[[山口組]]直系組長92人と、[[稲川聖城]]、[[石井隆匡]]、[[稲川裕紘]]、五代目[[酒梅組]]組長・[[谷口政雄]]、[[東亜友愛事業組合]]理事長・[[沖田守弘]]、[[双愛会]]会長・[[石井義雄]]ら10数人の親戚筋だけだった。 襲名相続式典にあたっては、祝儀の半分を先代組長の未亡人に贈るのが慣わしだったが、この時、[[渡辺芳則]]は先代・[[竹中正久]]の内妻・中山きよみに全く祝儀を届けていない。 -同月28日、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]は総会を開き、副組長に[[青木恵一郎]]、若頭に[[大西康雄]]、総本部長に笹部静男、組織委員長に貝崎忠美を据え、[[牛尾洋二]]が[[竹中組>竹中組(岡山県)]]舎弟頭補佐に就任した。 この時点で、舎弟頭補佐・[[杉本明政]]や、若頭補佐の[[生島仁吉]]、[[宮本郷弘]]が離脱に反対、これに対し[[竹中武]]は[[杉本明政]]を除籍、[[生島仁吉]]、[[宮本郷弘]]を破門とした。 [[竹中組>竹中組(岡山県)]]から追われた[[杉本明政]]と[[生島仁吉]]は、[[宅見勝]]の許へと走り、同年8月1日に[[杉本明政]]と[[生島仁吉]]は[[宅見勝]]から盃を与えられ舎弟入り。[[杉本明政]]は[[宅見組]]組長代行に就任。 更に[[竹中武]]と行動を共にしていた[[森田唯友紀]]が渡世から引退し、[[森唯組]]組員の大半が[[山口組]]傘下に流れた。 -同年8月3日、姫路市の[[竹中組>竹中組(岡山県)]]事務所の窓ガラスが銃撃された。 -同月23日、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員が自発的に集まり、今後の対策を協議したが結論は出なかった。 -同日午後8時、姫路市五軒邸の[[竹中組>竹中組(岡山県)]]若頭・[[大西康雄]]の[[大西組]]事務所に銃弾が撃ち込まれた。 -同日、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]・[[笹部組]](組長・笹部静男)事務所に銃弾4発が撃ち込まれた。 -同月24日、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]・[[牛尾組]](組長・[[牛尾洋二]])仮設事務所に銃弾が撃ち込まれた。その後、[[牛尾洋二]]は引退した。 -同月25日、加古川市の[[竹中組>竹中組(岡山県)]]・山本組組長・山本浩司宅に銃弾3発が撃ち込まれた。 -同月26日、[[山口組]]・三代目[[山健組]]・[[疋田組]]組員が、8トン積みの清掃車に乗って[[竹中正]]自宅隣にある[[竹中正]]が経営する不動産会社に突っ込んだ。 清掃車は姫路市美化業務課の物で、姫路バイパス高架下の駐車場から盗まれていた。 -同日、[[山口組]]・[[山健組]]・[[村正会>村正会(山健組)]]組員が、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]・林田組組長・林田誠一の自宅に銃弾を撃ち込んだ。 [[村正会>村正会(山健組)]]組員は待機させていたタクシーに乗って逃走したが、姫路警察署のパトカーに追跡されて逮捕された。 -同月27日、高松市の[[竹中組>竹中組(岡山県)]]・二代目[[西岡組>西岡組(杉本組)]]事務所に銃弾2発が撃ち込まれた。 -同月28日、神戸市灘区中原通の[[竹中組>竹中組(岡山県)]]・一志会事務所に銃弾3発が撃ち込まれ、玄関にいた一志会組員が右太ももを撃たれた。 -同日、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]の組長会が開かれたが、林田誠一、笹部静男、一志会会長らが欠席した。 -同月29日、兵庫県警暴対一課と灘警察署と姫路警察署の刑事が、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]傘下の[[笹部組]]、林田組、一志会の組事務所で、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]の看板が外されているのを確認した。 -同月31日、[[山口組]]若頭補佐・[[倉本広文]]、[[司忍]]、[[前田和男]]が、[[竹中武]]を訪問し引退と[[竹中組>竹中組(岡山県)]]の解散を迫ったが、[[竹中武]]は拒絶した。 この後、[[大西康雄]]は[[竹中組>竹中組(岡山県)]]から離脱し、[[竹中武]]は本部事務所を岡山市に移した。 -同日、岡山県英田郡美作町で[[竹中組>竹中組(岡山県)]]傘下組員の自宅に銃弾3発が撃ち込まれた。 -同年9月4日午後4時30分ごろ、2人組の男が岡山市田町の[[竹中組>竹中組(岡山県)]]・貝崎組事務所に銃弾を撃ち込んだ。 -同日午後9時30分、姫路市辻井の[[竹中正]]の自宅に銃弾2発が撃ち込まれた。 -同月6日、岡山市の[[竹中組>竹中組(岡山県)]]・宮本興業組事務所に銃弾3発が撃ち込まれた。 -同月7日、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]を離脱し、[[山口組]]に加入した笹部静男の自宅兼組事務所に数発の銃弾が撃ち込まれた。 -同日午後11時30分ごろ、兵庫県揖保郡太子町の[[竹中組>竹中組(岡山県)]]幹部の自宅近くにあった会社員宅に銃弾が撃ち込まれた。 -同月10日午前0時30分ごろ、重点警戒中の兵庫県警機動捜査隊が、姫路市福沢町で[[山口組]]・[[宅見組]]組員を銃刀法違反の現行犯で逮捕した。 -同月14日、警察庁は、岡山市で[[山口組]]関連の暴力対策会議を開いた。 -同月20日、岡山市伊福町の料亭で[[渡辺芳則]]は、[[西日本二十日会]]など中国地方と四国地方の他団体組長を集め、[[山口組]]五代目襲名披露を行った。 -同月21日、岡山市の[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組事務所の玄関ドアに[[山口組]]・[[宅見組]]組員が銃弾5発を撃ち込んだ。 [[宅見組]]組員は[[竹中組>竹中組(岡山県)]]事務所前で警備をしていた警察官12人に取り押さえられた。 -同月、元[[一和会]]本部長が自らの組を解散し、本籍地の山口県柳井市に帰郷した。 -同年10月、引退した元[[一和会]]本部長が、肝臓病を悪化させて柳井市の病院に入院。 [[竹中武]]は[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員3人に元本部長の入院した病院を監視させ[[山本広]]が見舞いに来るのを待ったが、元本部長の退院に伴い引き上げさせた。 -1990年(平成2年)1月23日、[[竹中正]]の自宅前の路上が火炎瓶で焼かれた。 -同月24日、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員2人が、山口県柳井市の元[[一和会]]本部長の自宅に侵入し、元本部長から[[山本広]]の所在を聞き出そうとしたが、元本部長は不在だった。 [[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員2人は、元本部長の妻をガムテープで縛り上げ、妻に拳銃を突きつけて元本部長の所在を尋ねたが、妻は返答を拒否したため[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員2人は逃走した。 この事件で、元本部長からは警察に被害届が出されていない。 -同年2月5日、姫路市北条に建設中だった[[竹中正]]の家が放火された。 -同月18日午後1時ごろ、男2人が姫路市の[[竹中正]]の自宅西側の事務所の玄関ガラスに銃弾7発を撃ち込んだ。 玄関ドアは防弾ガラスだったため銃弾は貫通せずケガ人はいなかった。 -同月27日午前10時すぎ、[[竹中正]]配下の組員が犬の散歩中に、車に乗っていた3人組から銃撃された。銃撃された組員は背中を撃たれたが、近くのタクシー会社に逃げ込んだ。 -同月末ごろには[[竹中組>竹中組(岡山県)]]の組員は20~30人になっていた。 -同年3月3日昼、黒のジャンパー姿の男が、引退した[[牛尾洋二]]が経営する不動産会社に押し入り拳銃で3発発砲。従業員2人がそれぞれ腹を撃たれ重傷を負った。 -同月4日午前6時50分ごろ、[[山口組]]系組員が姫路市延末にある[[竹中正久]]の内妻・中山きよみ宅の電動式門扉を鉄棒で壊して侵入し、玄関の木戸に4発、表札に1発の銃弾を撃ち込んだ。この事件でケガ人はいなかった。 -同月5日午後11時50分ごろ、岡山市十日市東町で[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員・熊原健裕が車で自宅に戻ったところ、車の窓越しから待ち伏せしていた男に銃弾6発を発砲され、首や胸などを撃たれて死亡した。 -同月6日午前4時ごろ、岡山市並木町の飲食店経営者が、自宅に帰る途中に[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員と間違われて腰を銃撃されて全治1ヶ月半の重傷を負った。 飲食店経営者は[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員が住むビルで店を経営していた。 -同月6日午前6時45分ごろ、岡山市金岡西町の岡山ブルーハイウェイの君津インター料金所で、岡山県警は検問中に幹部1人を含む[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員3人の乗った車と、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員1人が乗った車を発見し、職務質問をして2台の車内を捜索したところ、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]幹部の乗っていた車から拳銃3丁と実弾44発が発見。組員4人を銃刀法違反の容疑で現行犯逮捕した。 のちに1人で車に乗っていた[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員は、別の場所に拳銃1丁と実弾8発を持っていることを自供した。 -同月9日、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員4人に拳銃を運ぶよう指示したとして、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]ナンバー2が逮捕された。同幹部は拘置中に[[竹中組>竹中組(岡山県)]]から離脱し、引退した。 -同月12日午後0時50分ごろ、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]幹部が護衛のワゴン車を連れて車を運転していたが、岡山市大供1丁目で[[山口組]]襲撃班の車3台に遭遇。 幹部の乗る車と護衛のワゴン車は別の道に入って分散したが、[[山口組]]襲撃班の車3台は幹部の車を追跡し、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]幹部の運転する車を2度銃撃。 [[竹中組>竹中組(岡山県)]]幹部は岡山東警察署(現・岡山中央警察署)瓦橋派出所に逃げ込んだ。 -同月12日午後12時20分ごろ、鳥取県倉吉市のJR倉吉駅前の路上で、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]幹部・八栗拓一が、知り合いの女性と道路を歩行中に、胸や腹に銃弾3発を銃撃されて死亡した。女性も右腕に銃弾1発を受け、全治3ヶ月の重傷を負った。 -同月14日午前5時ごろ、岡山市京町のマンションに帰宅した女性が、窓ガラスに銃弾が撃ち込まれ、天井に穴が開いているのを発見して110番に通報した。 この部屋には、同年1月20日まで[[竹中組>竹中組(岡山県)]]幹部が住んでいたが、それ以降この女性にまた貸ししていた。 -同月14日、山口県警が柳井市の元[[一和会]]本部長の自宅を家宅捜索し、拳銃2丁と実弾23発を押収した。 -同月21日午前4時、[[山口組]]・[[大石組>大石組(岡山県)]]組員が、岡山市新京橋1丁目の[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組事務所に大型ショベルカーで突入。 大型ショベルカーは、警察官14人が警戒していた組事務所前でコンクリート製の電柱2本に衝突して電線を切り、駐車中のワゴン車に衝突して停止。組員は岡山東警察署の警察官に現行犯逮捕された。 -同年4月8日、岡山県警は、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]の組事務所前にパトカーを常駐させて、車止めを増強。 また、岡山県警は岡山市市道から[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組事務所までの道路の入り口に車止めを置き、警察官3人に監視させていた。 -同日午前4時、[[大石組>大石組(岡山県)]]組員が中型タイヤショベルで岡山市市道から[[竹中組>竹中組(岡山県)]]事務所までの道路の車止めを撥ね、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]事務所に突入。 警察官2人がパトカーをタイヤショベルに衝突させて停止させようとしたが止められず、現場指揮の警察官が、正当防衛の拳銃使用を許可し、3人の警察官がタイヤショベルのタイヤに向けて銃弾11発を発射した。 タイヤショベルは銃弾でタイヤが破損したが、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]事務所の通用門に突入し、事務所ガレージに突っ込み車を損壊した。 [[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員20人が事務所から飛び出し、タイヤショベルを取り囲み、投石したが、タイヤショベルは事務所への衝突を始めたため、数人の[[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員がタイヤショベルによじ登り、警察は発砲を中止。 タイヤショベルは組事務所への衝突を10回繰り返し、その後エンストを起こし[[大石組>大石組(岡山県)]]組員は投降して、岡山県警に逮捕された。 [[竹中組>竹中組(岡山県)]]組員1人が刃渡り17センチの包丁を持ってタイヤショベルに登ったため現行犯逮捕された。 その後、岡山県警は[[竹中組>竹中組(岡山県)]]事務所の警備を14人から20人に増やし、バリケードを2個設置した。 -同年6月18日午前9時20分、岡山県警暴力団対立抗争事件総合対策本部は岡山東警察署、岡山西警察署、岡山南警察署の警察官250人を動員し、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]事務所や組員の自宅など16か所を家宅捜索した。 -同日午前9時30分、岡山県警暴力団対立抗争事件総合対策本部は、元[[一和会]]本部長の自宅襲撃の指揮をしたとして、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]事務所で[[竹中武]]を逮捕した。 -同月19日、岡山県警暴力団対立抗争事件総合対策本部は、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]事務所の家宅捜索を続け、三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]や[[竹中正久]]の肖像写真、山菱の代紋入りの衝立などを押収した。 -同年8月中旬、[[竹中組>竹中組(岡山県)]]の組員は6人となっていた。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 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