後藤忠政 
後藤忠政(ごとう ただまさ、本名・後藤忠正、法名・忠叡、1942年9月16日- )は日本の元ヤクザ、僧侶。元・指定暴力団・六代目山口組舎弟、後藤組組長。
略歴 
ヤクザ時代 
- 1942年、東京に生まれる。
 
- 第二次世界大戦中に富士宮市に疎開し、以降富士宮市に住む。
 
- 地元の富士宮市を拠点に愚連隊として活動後、19歳でヤクザとなる。
 
- 20代半ばで松葉会系組織に移籍。トラブルを抱えていた稲川会系組員を日本刀で襲撃。殺人未遂容疑で起訴され、2年10ヶ月を甲府刑務所で過ごす。
 
- 1965年、甲府刑務所を出所、当時は警察の第一次頂上作戦による影響で、全国的に暴力団組織が壊滅・弱体化していた時期であるが、その情勢下で勢力を保ち続けた三代目山口組・菅谷組・川内組に移籍する。
 
- 1969年、川内組内に後藤組を結成。
若頭補佐や静岡支部長を歴任した。 
- 1977年4月、川内組組長・川内弘が殺害され(三国事件)、川内組が一時的に壊滅すると、浜松市を拠点とする三代目山口組・伊堂組に舎弟として移籍。
 
- 静岡県周辺のテキヤ組織を次々に傘下に収め勢力を拡大した。
 
- 1984年7月、四代目山口組が発足すると伊堂組組長・伊堂敏雄が引退。四代目山口組若中へ昇格。後藤を推薦したのは、直接の面識は無かったが高知豪友会会長の中山勝正であったと、後に知ったという。
 
- 山一抗争では山本広邸をダンプカーで襲撃した。
 
- 1989年、五代目山口組が発足。
 
- 1992年5月、伊丹十三襲撃事件を起こす。
 
- 2001年7月に、アメリカのカリフォルニア大学ロサンゼルス校附属病院で肝臓移植を受ける。
 
- 2002年7月、五代目山口組若頭補佐。
 
- 2005年8月、六代目山口組舎弟。
 
- 2008年10月、病気を理由に六代目山口組の定例会を欠席し、自身の誕生日を祝うため芸能人が多数参加したゴルフコンペを開いた事が問題視され、除籍となり引退。
 
引退後 
- 2009年4月8日、神奈川県伊勢原市の天台宗の寺院・無常山浄発願寺で得度、法名・忠叡を名乗る。
 
- 2011年頃よりカンボジア・プノンペンの高級マンションに移住。
カンボジアでは養鶏場経営などの実業を手掛けるとともに学校建設などボランティア活動も行う。 
- 2012年末にはカンボジア国籍を取得し、伯爵に相当する「オンニャー」の称号を授与され「オンニャー忠叡」を名乗る。
 
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