#author("2025-05-29T22:35:56+09:00","","") #author("2025-05-29T22:59:47+09:00","","") * 青梅孫八 [#aec295c4] ''青梅孫八''(おうめの まごはち、別名・師岡孫八(もろおかの まごはち))は幕末の侠客、博徒、目明し、元力士。 ** 略歴 [#c185564c] -姓内野。通称を「六万の親分」と呼ばれた。 -若い頃は「内野川」の四股名を名乗る江戸角力の力士であったと伝わる。 -相撲廃業後は郷里に戻ったが、天保6年に帳外の仕置きを受け無宿者となり、同時に妻にも離縁された。しかし弘化年間に入ってから、運命が一転したらしく、除帳も解け、顔役として地元に貢献した。嘉永3年、正式に川越藩火盗改の「目明し」に雇われる。 -侠客として、孫八の交友関係は広く、[[小金井小次郎]]から慕われ、[[高萩万次郎]]、[[田中屋万五郎]]とは盟友であり、江戸の[[新門辰五郎]]とも親しく交際した。また甲州の[[祐天仙之助]]からも信頼されており、なべて侠客間の橋渡しをするような立場だったと言える。 -万延元年、文久3年と地元でかつての人脈を活かし、角力興行を執り行なっている。 -飯能永田の萬福寺に[[高萩万次郎]]と共に水鉢を奉納しており、また東京秋津の秋津神社灯篭にも''モロヲカ孫八''の名を刻んでいる。他に坂戸北大塚の石上神社勧化帖(文久2年)にも''師岡村孫八''の名で金弐分二朱の勧化金を出している。 -飯能永田の萬福寺に[[高萩万次郎]]、[[飯能森太郎]]らと共に水鉢を奉納しており、また東京秋津の秋津神社灯篭にも''モロヲカ孫八''の名を刻んでいる。他に坂戸北大塚の石上神社勧化帖(文久2年)にも''師岡村孫八''の名で金弐分二朱の勧化金を出している。 -晩年は後妻との間に、養女を迎え三人で細々と、しかし平和に暮らした。なお目明しは明治2年まで務めた。 -明治10年没。墓所は妙光院。跡目は[[宮崎馬之助]]が継いだ。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~