鶴酒藤兄弟会
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* 鶴酒藤兄弟会 [#q64f0f79] ''鶴酒藤兄弟会''(つるさかふじきょうだいかい)は港湾荷役が発祥の[[暴力団]]の親睦団体。 ** 略歴 [#q11b6aaf] //-横浜港には幕末から明治初期にかけて[[石川政吉]]と[[鈴木要蔵]]という親分がおり、特に鈴木は「江戸の[[新門辰五郎]]と浜の[[鈴木要蔵]]」と並び称された。 *** 神戸港 [#n0fbebe4] -明治初年頃、元力士の関浦清五郎が神戸で沖仲仕の供給業を行う。 -[[吉田磯吉]]配下の[[富永亀吉]]が新興港湾都市神戸に出て荷役の人夫供給業を始める。明治中期頃には[[富永亀吉]]は佐野常助、藤田泰蔵、磯辺虎吉らと並ぶ大親分となる。 -大正初年頃、[[大島秀吉]]が博多から[[富永亀吉]]のところに来て、富永舎弟の石川恵造舎弟となる。この頃、[[富永亀吉]]、[[大島秀吉]]、その配下の[[山口春吉]]が神戸の港湾や土木を取り仕切っていた。 -大正4年、[[山口春吉]]が[[山口組]]を結成。 -大正12年、[[富永亀吉]]が三宮の[[中山組>中山組(兵庫県)]]・[[中山八十吉]]配下に殺される。さらに石川恵造も病死。[[大島秀吉]]が神戸港を代表する親分となる。 -大正14年、[[山口登]]が[[山口組]]二代目を継承。 *** 鶴酒藤兄弟会の設立 [#cd3a20c2] -1926年(大正15年)1月17日、神戸市の[[鶴井組]]・[[鶴井寿太郎]]、鶴井組出身の横浜市の[[酒井組]]・[[酒井信太郎]]、神戸市の[[藤原組]]・[[藤原光次郎]]により''鶴酒藤兄弟会''が設立。設立は[[酒井信太郎]]による。 -1930年(昭和5年)、[[大島組>大嶋組(兵庫県)]]と二代目[[山口組]]が対立し、[[山口登]]は[[大島組>大嶋組(兵庫県)]]を破門となる。 -1940年(昭和15年)、二代目[[山口組]]組長・[[山口登]]が3人と兄弟盃を交わし鶴酒藤に加入。鶴酒藤の本拠地が横浜に移ったあと神戸支部長を務めた。 -のちに[[酒井信太郎]]子分格の[[藤木組]]・[[藤木幸太郎]]、[[東海荷役>綱島一家]]・[[鶴岡政次郎]]、[[笹田組>笹田一家]]・[[笹田照一]]、[[原田辰蔵]]らも加わる。 -1942年(昭和17年)12月、神奈川県警の解散勧告を受けて翌年1月に解散。 *** 全国港湾荷役振興協会 [#b7a124ab] -1946年(昭和21年)、[[田岡一雄]]が[[山口組]]三代目を継承。 -原田辰蔵の墓には戦後に作られた玉垣に鶴酒藤兄弟会として、横浜酒井組一同、鈴江組一同、酒井信太郎、荒井利喜蔵、鈴木亀吉、有尾岩次郎、鈴江繁一、大久保常吉、[[鶴岡政次郎]]、松本健太郎、門井鍋四郎、[[森川盛之助]]、[[阿部重作]]、駒井誠治、大久保秀雄、谷沢三起也、浅生山正夫、伊藤清蔵、斉藤敏三、横浜酒井組一同、藤原組一同、安藤龍太郎、小林福太郎、清瀬一夫、井上洋之助、[[高砂藤吉]]、[[笹田照一]]、[[高木康太]]、廣田敬次、荒井直、[[藤木幸太郎]]、[[田岡一雄]]、酒井大助、花島惣太郎、大沢勝吾郎、大石松男、山本繁男、佐藤軍治、漆原金一郎の刻名があり全国的な港湾ヤクザの繋がりであったことがわかる。 -1949年(昭和24年)4月1日、三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]が解散した鶴酒藤系の船内荷役業者を集め''港胴会''を結成。会長に就任。 -1951年(昭和26年)[[山口組]]系の藤海運、三友運輸(昭和27年三友企業に改称)、山ノ内運輸、上栄運輸、扇港海運を設立。 -1952年(昭和27年)1月17日、[[田岡一雄]]は港胴会を解消し''港湾荷役協議会''を結成。会長に就任。 -同年、[[山口組]]系の高砂運輸、岡村運輸を設立。 -1953年(昭和28年)[[田岡一雄]]自ら甲陽運輸を設立。 -1954年(昭和29年)[[山口組]]系の住井運輸を設立。 -1955年(昭和30年)[[山口組]]系の安原運輸を設立。 -1956年(昭和31年)8月、港湾荷役協議会は解散し''全国港湾荷役振興協会''(全港振)に発展。[[田岡一雄]]が副会長兼神戸支部長に就任。 -1957年(昭和32年)[[山口組]]系の山一運輸を設立。 *** 山口組の撤退 [#p4d41e72] -兵庫県警の[[山口組]]壊滅作戦が行われ、昭和41年、三友企業・[[岡精義]]をはじめ全港振加盟の[[山口組]]系港湾荷役会社13社が[[山口組]]を脱退した。 -同年[[田岡一雄]]らも全港振神戸支部役員を辞任、全港振本部・神戸支部はともに解散した。 -同年8月、新たに神戸船内荷役協会が設立。 [[田岡一雄]]は甲陽運輸の役員を辞任させられ株式も一部を残し元請に売却。実子の田岡満が代表に就いた。 [[岡精義]]と実子の岡新も三友企業、甲陽運輸、山一運輸、扇港海運、双和運輸の役員を辞任されられ、株式も売却。 //-港湾荷役の全国規模的な団体とされ、GHQに解散を命ぜられる。 //-本多組・[[本多仁介]]、永宝商会・向井繁人、原田辰蔵らもその流れを組む。 //-向井繁人、本多仁介、笹田照一、鶴岡政次郎、藤木幸太郎、田岡一雄は後にミナトの六人衆と言われた。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~
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* 鶴酒藤兄弟会 [#q64f0f79] ''鶴酒藤兄弟会''(つるさかふじきょうだいかい)は港湾荷役が発祥の[[暴力団]]の親睦団体。 ** 略歴 [#q11b6aaf] //-横浜港には幕末から明治初期にかけて[[石川政吉]]と[[鈴木要蔵]]という親分がおり、特に鈴木は「江戸の[[新門辰五郎]]と浜の[[鈴木要蔵]]」と並び称された。 *** 神戸港 [#n0fbebe4] -明治初年頃、元力士の関浦清五郎が神戸で沖仲仕の供給業を行う。 -[[吉田磯吉]]配下の[[富永亀吉]]が新興港湾都市神戸に出て荷役の人夫供給業を始める。明治中期頃には[[富永亀吉]]は佐野常助、藤田泰蔵、磯辺虎吉らと並ぶ大親分となる。 -大正初年頃、[[大島秀吉]]が博多から[[富永亀吉]]のところに来て、富永舎弟の石川恵造舎弟となる。この頃、[[富永亀吉]]、[[大島秀吉]]、その配下の[[山口春吉]]が神戸の港湾や土木を取り仕切っていた。 -大正4年、[[山口春吉]]が[[山口組]]を結成。 -大正12年、[[富永亀吉]]が三宮の[[中山組>中山組(兵庫県)]]・[[中山八十吉]]配下に殺される。さらに石川恵造も病死。[[大島秀吉]]が神戸港を代表する親分となる。 -大正14年、[[山口登]]が[[山口組]]二代目を継承。 *** 鶴酒藤兄弟会の設立 [#cd3a20c2] -1926年(大正15年)1月17日、神戸市の[[鶴井組]]・[[鶴井寿太郎]]、鶴井組出身の横浜市の[[酒井組]]・[[酒井信太郎]]、神戸市の[[藤原組]]・[[藤原光次郎]]により''鶴酒藤兄弟会''が設立。設立は[[酒井信太郎]]による。 -1930年(昭和5年)、[[大島組>大嶋組(兵庫県)]]と二代目[[山口組]]が対立し、[[山口登]]は[[大島組>大嶋組(兵庫県)]]を破門となる。 -1940年(昭和15年)、二代目[[山口組]]組長・[[山口登]]が3人と兄弟盃を交わし鶴酒藤に加入。鶴酒藤の本拠地が横浜に移ったあと神戸支部長を務めた。 -のちに[[酒井信太郎]]子分格の[[藤木組]]・[[藤木幸太郎]]、[[東海荷役>綱島一家]]・[[鶴岡政次郎]]、[[笹田組>笹田一家]]・[[笹田照一]]、[[原田辰蔵]]らも加わる。 -1942年(昭和17年)12月、神奈川県警の解散勧告を受けて翌年1月に解散。 *** 全国港湾荷役振興協会 [#b7a124ab] -1946年(昭和21年)、[[田岡一雄]]が[[山口組]]三代目を継承。 -原田辰蔵の墓には戦後に作られた玉垣に鶴酒藤兄弟会として、横浜酒井組一同、鈴江組一同、酒井信太郎、荒井利喜蔵、鈴木亀吉、有尾岩次郎、鈴江繁一、大久保常吉、[[鶴岡政次郎]]、松本健太郎、門井鍋四郎、[[森川盛之助]]、[[阿部重作]]、駒井誠治、大久保秀雄、谷沢三起也、浅生山正夫、伊藤清蔵、斉藤敏三、横浜酒井組一同、藤原組一同、安藤龍太郎、小林福太郎、清瀬一夫、井上洋之助、[[高砂藤吉]]、[[笹田照一]]、[[高木康太]]、廣田敬次、荒井直、[[藤木幸太郎]]、[[田岡一雄]]、酒井大助、花島惣太郎、大沢勝吾郎、大石松男、山本繁男、佐藤軍治、漆原金一郎の刻名があり全国的な港湾ヤクザの繋がりであったことがわかる。 -1949年(昭和24年)4月1日、三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]が解散した鶴酒藤系の船内荷役業者を集め''港胴会''を結成。会長に就任。 -1951年(昭和26年)[[山口組]]系の藤海運、三友運輸(昭和27年三友企業に改称)、山ノ内運輸、上栄運輸、扇港海運を設立。 -1952年(昭和27年)1月17日、[[田岡一雄]]は港胴会を解消し''港湾荷役協議会''を結成。会長に就任。 -同年、[[山口組]]系の高砂運輸、岡村運輸を設立。 -1953年(昭和28年)[[田岡一雄]]自ら甲陽運輸を設立。 -1954年(昭和29年)[[山口組]]系の住井運輸を設立。 -1955年(昭和30年)[[山口組]]系の安原運輸を設立。 -1956年(昭和31年)8月、港湾荷役協議会は解散し''全国港湾荷役振興協会''(全港振)に発展。[[田岡一雄]]が副会長兼神戸支部長に就任。 -1957年(昭和32年)[[山口組]]系の山一運輸を設立。 *** 山口組の撤退 [#p4d41e72] -兵庫県警の[[山口組]]壊滅作戦が行われ、昭和41年、三友企業・[[岡精義]]をはじめ全港振加盟の[[山口組]]系港湾荷役会社13社が[[山口組]]を脱退した。 -同年[[田岡一雄]]らも全港振神戸支部役員を辞任、全港振本部・神戸支部はともに解散した。 -同年8月、新たに神戸船内荷役協会が設立。 [[田岡一雄]]は甲陽運輸の役員を辞任させられ株式も一部を残し元請に売却。実子の田岡満が代表に就いた。 [[岡精義]]と実子の岡新も三友企業、甲陽運輸、山一運輸、扇港海運、双和運輸の役員を辞任されられ、株式も売却。 //-港湾荷役の全国規模的な団体とされ、GHQに解散を命ぜられる。 //-本多組・[[本多仁介]]、永宝商会・向井繁人、原田辰蔵らもその流れを組む。 //-向井繁人、本多仁介、笹田照一、鶴岡政次郎、藤木幸太郎、田岡一雄は後にミナトの六人衆と言われた。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~
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