青梅孫八
青梅孫八(おうめの まごはち、別名・師岡孫八(もろおかの まごはち))は幕末の侠客、博徒、目明し、元力士。
略歴
- 姓内野。通称を「六万の親分」と呼ばれた。
- 若い頃は「内野川」の四股名を名乗る江戸角力の力士であったと伝わる。
- 相撲廃業後は郷里に戻ったが、天保6年に帳外の仕置きを受け無宿者となり、同時に妻にも離縁された。しかし弘化年間に入ってから、運命が一転したらしく、除帳も解け、顔役として地元に貢献した。嘉永3年、正式に川越藩火盗改の「目明し」に雇われる。
- 侠客として、孫八の交友関係は広く、小金井小次郎から慕われ、高萩万次郎、田中屋万五郎とは盟友であり、江戸の新門辰五郎とも親しく交際した。また甲州の祐天仙之助からも信頼されており、なべて侠客間の橋渡しをするような立場だったと言える。
- 万延元年、文久3年と地元でかつての人脈を活かし、角力興行を執り行なっている。
- 飯能永田の萬福寺に高萩万次郎、飯能森太郎らと共に水鉢を奉納しており、また東京秋津の秋津神社灯篭にもモロヲカ孫八の名を刻んでいる。他に坂戸北大塚の石上神社勧化帖(文久2年)にも師岡村孫八の名で金弐分二朱の勧化金を出している。
- 晩年は後妻との間に、養女を迎え三人で細々と、しかし平和に暮らした。なお目明しは明治2年まで務めた。
- 明治10年没。墓所は妙光院。跡目は宮崎馬之助?が継いだ。
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