#author("2025-06-21T22:09:12+09:00","","") #author("2025-06-21T22:09:26+09:00","","") * 佐原喜三郎 [#k7a4895a] ''佐原喜三郎''(さわらの きさぶろう、本名・本郷喜三郎、1806年-1845年7月7日)は幕末の侠客、博徒。 ** 略歴 [#jad336d2] -下総国香取郡佐原村の人。 -文化3年、佐原村の大百姓本郷武右衛門の長男に生まれる。 -[[岡沢助左衛門]]という親分に捕らえられる。 -博打の罪で八丈島に流刑となる。 -天保9年7月3日、島抜けをするが、僅か90日で捕まる。 -八丈島流人帳に天保七年三月流罪、天保九年七月三日抜舟・花鳥(花島とも)等と同蒔抜舟・八丈島では朝日象現と唱え中之郷村預り・賭場胴取・内藤隼人正掛・申三月入牢・浄土宗・下総国香取郡佐原村新田百姓・喜三郎・着島年令三十一歳とある。 -伝馬町の東大牢に入れられ、牢名主を務める。 -天保12年1月4日、小伝馬町の牢獄で起こった火災では、切解3日が言い渡されたが東大牢では一人の帰牢者もなかったため、天保13年12月19日に永牢が言い渡される。 -弘化2年、喧嘩の罪で[[新門辰五郎]](当時47歳、喜三郎は40歳)も東大牢に送られている。また、それより早く[[小金井小次郎]](当時27歳)もいた。 -同年頃、第三牢の牢名主は鉄砲洲稲荷町の[[角島伝蔵]]こと木村伝蔵で、ここには古河の[[辺見禎蔵]](当時26歳)がいた。 -同年頃、第三牢の牢名主は鉄砲洲稲荷町の[[角島伝蔵]]こと木村伝蔵で、ここには古河の[[辺見貞蔵]](当時26歳)がいた。 -同年5月9日、江戸十里四方追放となり出獄。病気が悪化したとみられる。 -出獄した時に、江戸深川富岡町の綿貫藤助(喜三郎の姉の孫まつ女の再縁の夫)方に落ち着いたのであるが、その八畳間が全国の顔役からの出所見舞祝品で一杯となったという。 -弘化2年6月3日没。行年40歳。墓所は千葉県佐原市佐原の法界寺。 -近世侠客有名鏡に名があり。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~