#author("2025-08-22T13:31:50+09:00;2025-08-22T08:37:29+09:00","","") #author("2025-08-22T13:32:38+09:00;2025-08-22T08:37:29+09:00","","") * 草野高明 [#rac750b0] ''草野高明''(くさの たかあき 1922年-1991年)は日本のヤクザ。[[草野一家]]総長。二代目[[工藤連合草野一家]]総裁。二代目[[工藤會]]会長。 ** 略歴 [#n800c87b] -1922年(大正11年)、福岡県小倉生まれ。山口県下関の[[籠寅組>合田一家]]の若衆であったが、[[工藤玄治]]の元で修業をしていた。[[工藤玄治]]が[[工藤組>工藤會]]を立ち上げると移籍。後に若頭となり草野組を結成。 -1922年(大正11年)、福岡県小倉生まれ。山口県下関の[[籠寅組>合田一家]]の若衆であったが、[[工藤玄治]]の元で修業をしていた。[[工藤玄治]]が[[工藤組>工藤會]]を立ち上げると移籍。後に若頭となり[[工藤組>工藤會]]系草野組を結成。 -1950年(昭和25年)、福岡県若松市の暴力団・[[梶原組>梶原組(地道組)]]の組員が、草野高明の弟を刺殺する事件が勃発。この事件では[[梶原組>梶原組(地道組)]]と草野組は和解は一切せず、その後も激しい対立が続く。 -1963年(昭和38年)5月、三代目[[山口組]]若頭・[[地道行雄]]は[[梶原組>梶原組(地道組)]]と[[安藤組>安藤組(地道組)]]に盃を下ろし、[[地道組]]傘下に収め、同年7月には北九州市の[[長畠組]]も傘下に収めた。事実上三代目[[山口組]]は、福岡県に進出した。 -同年9月10日、三代目[[山口組]]若頭補佐・[[菅谷政雄]]が北九州市小倉区に「芦原興行社」を設立し侵攻を開始した。その後、[[梶原国弘]](後に射殺された元漁協組合長)は[[地道行雄]]を通して、北九州市での''力道山のプロレス興行''の実施を三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]に依頼(田岡は日本プロレス協会副会長)、[[田岡一雄]]は即座に了承した。これを知った草野高明が[[梶原国弘]]へ対抗し、市内での北原謙二の公演開催を決定し開催日も同日である。 -同年10月1日、草野高明の企図した「北原謙二ショー」が開催されたが、閉演後にショーの警備要員として応援に来ていた石松組の組員が、[[梶原組>梶原組(地道組)]]組員に銃撃され重傷を負う事件が発生。この時、福岡県警は700人の警察官を動員し、[[梶原組>梶原組(地道組)]]と草野組の抗争に備え警戒に当たった。これを直接のきっかけとして、1963年、[[工藤組>工藤會]]組員らが[[山口組]]系組員らを河原で撲殺したいわゆる''[[紫川事件]]''が発生してしまう。この事件により、当時・[[工藤組>工藤會]]若頭であった草野高明は殺人教唆に問われて懲役10年の刑に服した。 -1966年(昭和41年)、未決拘留中の草野高明は[[工藤組>工藤會]]組長・[[工藤玄治]]に相談無しに「[[工藤組>工藤會]]からの脱退、草野組の解散」を発表した。これは[[工藤玄治]]に警察から累が及ぶのを恐れた苦渋の選択であったが、ここで[[工藤玄治]]は感情的になり激怒し、草野高明を破門した。 -1977年(昭和52年)、草野高明は刑期が終えて出所したが、[[工藤組>工藤會]]改め[[工藤会>工藤會]]からの出迎えは無く、抗争相手であった三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]が直接放免祝いをし、これに感動した草野高明は親[[山口組]]となった。 -1978年(昭和53年)、草野高明は元草野組組員を束ねて[[草野一家]]を結成。結成時の草野一家の組員は210名ほどで、[[工藤会>工藤會]]よりわずかに多かった。 -1979年(昭和54年)、草野高明は[[山口組]]・[[伊豆組]]組長・[[伊豆健児]]と兄弟盃を交わした。結縁式には[[工藤玄治]]を始め、九州組織の大幹部達が出席したが、ただ一人、[[工藤会>工藤會]]の若手の筆頭格[[田中組>田中組(工藤會)]]組長・[[田中新太郎]]は出席しなかった。その後、草野一家と[[工藤会>工藤會]]は激しい抗争を繰り広げた。 -1981年(昭和56年)2月25日、[[稲川会]]初代会長・[[稲川聖城]]の仲裁により、手打ちが行われ抗争は終結した。手打ちの条件は[[工藤玄治]]は草野高明の破門を解き、先々には[[工藤会>工藤會]]の跡目を草野高明に譲るというものだった。 -1987年(昭和62年)6月、[[工藤会>工藤會]]と草野一家は合併し「工藤連合草野一家」を結成、総裁に[[工藤玄治]]、総長に草野高明、若頭に[[溝下秀男]]が就任した。 -1990年(平成2年)、名誉総裁に[[工藤玄治]]、二代目総裁に[[草野高明]]、二代目総長に[[溝下秀男]]、総長代行に[[天野義孝]]、若頭に[[野村悟]]とした。 -1991年(平成3年)、総裁・草野高明が死去。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~