後藤忠政
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* 後藤忠政 [#x1608d88] ''後藤忠政''(ごとう ただまさ 本名・後藤忠正 法名・忠叡 1942年9月16日-2026年2月8日)は日本の元ヤクザ、僧侶。元・指定暴力団・六代目[[山口組]]舎弟、[[後藤組>後藤組(山口組)]]組長。 ** 人物 -「経済ヤクザ」「武闘派」として知られ、[[山口組]]の東京進出に深く関わった人物。 -1942年、東京に生まれる。 -第二次世界大戦中に父の郷里である富士宮市へ疎開し、以降富士宮市に住む。 -1999年には日本航空の株式約100万株を自己名義にしていて、「経済やくざ」の側面も強く、フロント企業などを通じて巨額の資金を蓄積。 -2001年7月、アメリカ・南カリフォルニアのトップクラスの総合医療センターであるカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)が運営する附属病院で肝臓移植を受けるため渡米。 犯罪歴により入国禁止対象だったが、米連邦捜査局(FBI)に[[山口組]]の情報を提供する見返りに便宜を図ってもらったと米メディアに報じられた。 手術先のUCLA付属病院には10万ドルを寄付したとされる。 -芸能人を招いた誕生パーティーなどが週刊誌に報じられ、関係をもった歌手がNHK紅白歌合戦に出演できなくなるなど芸能界にも大きな影響を及ぼした。 ** 略歴 [#n3e26f8c] *** ヤクザ時代 [#eccdf6d1] -地元の富士宮市を拠点に愚連隊として活動後、19歳でヤクザとなる。 -20代半ばで[[松葉会]]系組織に移籍。トラブルを抱えていた[[稲川会]]系組員を日本刀で襲撃。殺人未遂容疑で起訴され、2年10ヶ月を甲府刑務所で過ごす。 -1965年、甲府刑務所を出所、当時は警察の第一次頂上作戦による影響で、全国的に暴力団組織が壊滅・弱体化していた時期であるが、その情勢下で勢力を保ち続けた三代目[[山口組]]・[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]・[[川内組>川内組(山口組)]]に移籍する。 -1969年、[[川内組>川内組(山口組)]]内に[[後藤組>後藤組(山口組)]]を結成。 若頭補佐や静岡支部長を歴任した。 -1977年4月、[[川内組>川内組(山口組)]]組長・[[川内弘]]が殺害され(三国事件)、[[川内組>川内組(山口組)]]が一時的に壊滅すると、浜松市を拠点とする三代目[[山口組]]・[[伊堂組>一力一家]]に舎弟として移籍。 -静岡県周辺のテキヤ組織を次々に傘下に収め勢力を拡大した。 -1984年7月、四代目[[山口組]]が発足すると[[伊堂組>一力一家]]組長・[[伊堂敏雄]]が引退。四代目[[山口組]]若中へ昇格。 後藤忠政を推薦したのは、直接の面識は無かったが高知[[豪友会]]会長・[[中山勝正]]であったと後に知った。 -[[山一抗争]]では[[山本広]]邸をダンプカーで襲撃した。 -1989年、五代目[[山口組]]が発足。 -1992年5月22日、民事介入暴力をテーマにした映画「ミンボーの女」での暴力団描写に反発し、監督の伊丹十三への報復を画策。 東京都世田谷区の伊丹十三宅付近で[[後藤組>後藤組(山口組)]]組員3人が伊丹十三を襲撃し、刃物で顔や首を切りつけ全治3カ月の重傷を負わせた([[伊丹十三襲撃事件]])。 この事件では、実行犯として[[後藤組>後藤組(山口組)]]組員組員ら5人が逮捕された。 -2002年7月、五代目[[山口組]]若頭補佐に昇格。 -2006年、ビル不正登記事件で逮捕され、後に有罪判決が確定。この事件ではビル管理会社の顧問が刺殺される事件も発生した。 -2005年8月、六代目[[山口組]]舎弟に直る。 -2008年10月、病気を理由に六代目[[山口組]]の定例会を欠席し、自身の誕生日を祝うため芸能人が多数参加したゴルフコンペや誕生パーティーを開いた事が報道され、執行部は"定例会には来ないのにゴルフはやれるのか"と問題視。 執行部は後藤忠政に説明を求めたが、後藤忠政は説明を拒否。15日間に及んで緊張状態が続いたが、後藤忠政は除籍処分を受けて引退。[[後藤組>後藤組(山口組)]]は解散した。 この執行部の[[後藤組>後藤組(山口組)]]処分問題に抗議する[[山口組]]直参組長13人の連判状が出回り、執行部はこの抗議に連座した[[井奥文夫]]([[井奥会]]会長)、[[浅川睦男]](二代目[[浅川一家]]総長)、[[奈須幸則]](三代目[[大門会]]会長)、[[小野守利]](六代目[[奥州会津角定一家]]総長)、[[浅川桂次]]([[浅川会]]会長)、[[太田守正]]([[太田興業>太田興業(神戸山口組)]]組長)、[[川崎昌彦]](二代目[[一心会]]会長)の7団体を絶縁、除籍の処分とした。 *** 引退後 [#le5890d6] -2009年4月8日、神奈川県伊勢原市の天台宗の寺院・無常山浄発願寺で得度、法名・忠叡を名乗る。 -2010年に出版した自叙伝「憚りながら」(宝島社)では、暴力団と政財界、宗教団体との関係を暴露しベストセラーとなった。 -2011年頃よりカンボジア・プノンペンの高級マンションに移住。 カンボジアでは養鶏場経営などの実業を手掛けるとともに学校建設などボランティア活動も行う。 -2012年末にはカンボジア国籍を取得し、伯爵に相当する「オンニャー」の称号を授与され「オンニャー忠叡」を名乗る。 -2026年2月8日午後、東京都渋谷区恵比寿の自宅から病院に救急搬送されたが誤嚥性肺炎で死去。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 - 川内組に入る前は同じ菅谷組天心会富士宮支部代行で川内が天心会佐々木竜二(丸山清)から貰い受けるがこれが川内弘暗殺のきっかけとなる後藤組と天心会の抗争を起こすことになる。 -- &new{2026-02-08 (日) 10:32:44}; - 2026年2月7日午前、都内の病院にて逝去 -- [[関東]] &new{2026-02-09 (月) 13:06:18}; #comment ~
* 後藤忠政 [#x1608d88] ''後藤忠政''(ごとう ただまさ 本名・後藤忠正 法名・忠叡 1942年9月16日-2026年2月8日)は日本の元ヤクザ、僧侶。元・指定暴力団・六代目[[山口組]]舎弟、[[後藤組>後藤組(山口組)]]組長。 ** 人物 -「経済ヤクザ」「武闘派」として知られ、[[山口組]]の東京進出に深く関わった人物。 -1942年、東京に生まれる。 -第二次世界大戦中に父の郷里である富士宮市へ疎開し、以降富士宮市に住む。 -1999年には日本航空の株式約100万株を自己名義にしていて、「経済やくざ」の側面も強く、フロント企業などを通じて巨額の資金を蓄積。 -2001年7月、アメリカ・南カリフォルニアのトップクラスの総合医療センターであるカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)が運営する附属病院で肝臓移植を受けるため渡米。 犯罪歴により入国禁止対象だったが、米連邦捜査局(FBI)に[[山口組]]の情報を提供する見返りに便宜を図ってもらったと米メディアに報じられた。 手術先のUCLA付属病院には10万ドルを寄付したとされる。 -芸能人を招いた誕生パーティーなどが週刊誌に報じられ、関係をもった歌手がNHK紅白歌合戦に出演できなくなるなど芸能界にも大きな影響を及ぼした。 ** 略歴 [#n3e26f8c] *** ヤクザ時代 [#eccdf6d1] -地元の富士宮市を拠点に愚連隊として活動後、19歳でヤクザとなる。 -20代半ばで[[松葉会]]系組織に移籍。トラブルを抱えていた[[稲川会]]系組員を日本刀で襲撃。殺人未遂容疑で起訴され、2年10ヶ月を甲府刑務所で過ごす。 -1965年、甲府刑務所を出所、当時は警察の第一次頂上作戦による影響で、全国的に暴力団組織が壊滅・弱体化していた時期であるが、その情勢下で勢力を保ち続けた三代目[[山口組]]・[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]・[[川内組>川内組(山口組)]]に移籍する。 -1969年、[[川内組>川内組(山口組)]]内に[[後藤組>後藤組(山口組)]]を結成。 若頭補佐や静岡支部長を歴任した。 -1977年4月、[[川内組>川内組(山口組)]]組長・[[川内弘]]が殺害され(三国事件)、[[川内組>川内組(山口組)]]が一時的に壊滅すると、浜松市を拠点とする三代目[[山口組]]・[[伊堂組>一力一家]]に舎弟として移籍。 -静岡県周辺のテキヤ組織を次々に傘下に収め勢力を拡大した。 -1984年7月、四代目[[山口組]]が発足すると[[伊堂組>一力一家]]組長・[[伊堂敏雄]]が引退。四代目[[山口組]]若中へ昇格。 後藤忠政を推薦したのは、直接の面識は無かったが高知[[豪友会]]会長・[[中山勝正]]であったと後に知った。 -[[山一抗争]]では[[山本広]]邸をダンプカーで襲撃した。 -1989年、五代目[[山口組]]が発足。 -1992年5月22日、民事介入暴力をテーマにした映画「ミンボーの女」での暴力団描写に反発し、監督の伊丹十三への報復を画策。 東京都世田谷区の伊丹十三宅付近で[[後藤組>後藤組(山口組)]]組員3人が伊丹十三を襲撃し、刃物で顔や首を切りつけ全治3カ月の重傷を負わせた([[伊丹十三襲撃事件]])。 この事件では、実行犯として[[後藤組>後藤組(山口組)]]組員組員ら5人が逮捕された。 -2002年7月、五代目[[山口組]]若頭補佐に昇格。 -2006年、ビル不正登記事件で逮捕され、後に有罪判決が確定。この事件ではビル管理会社の顧問が刺殺される事件も発生した。 -2005年8月、六代目[[山口組]]舎弟に直る。 -2008年10月、病気を理由に六代目[[山口組]]の定例会を欠席し、自身の誕生日を祝うため芸能人が多数参加したゴルフコンペや誕生パーティーを開いた事が報道され、執行部は"定例会には来ないのにゴルフはやれるのか"と問題視。 執行部は後藤忠政に説明を求めたが、後藤忠政は説明を拒否。15日間に及んで緊張状態が続いたが、後藤忠政は除籍処分を受けて引退。[[後藤組>後藤組(山口組)]]は解散した。 この執行部の[[後藤組>後藤組(山口組)]]処分問題に抗議する[[山口組]]直参組長13人の連判状が出回り、執行部はこの抗議に連座した[[井奥文夫]]([[井奥会]]会長)、[[浅川睦男]](二代目[[浅川一家]]総長)、[[奈須幸則]](三代目[[大門会]]会長)、[[小野守利]](六代目[[奥州会津角定一家]]総長)、[[浅川桂次]]([[浅川会]]会長)、[[太田守正]]([[太田興業>太田興業(神戸山口組)]]組長)、[[川崎昌彦]](二代目[[一心会]]会長)の7団体を絶縁、除籍の処分とした。 *** 引退後 [#le5890d6] -2009年4月8日、神奈川県伊勢原市の天台宗の寺院・無常山浄発願寺で得度、法名・忠叡を名乗る。 -2010年に出版した自叙伝「憚りながら」(宝島社)では、暴力団と政財界、宗教団体との関係を暴露しベストセラーとなった。 -2011年頃よりカンボジア・プノンペンの高級マンションに移住。 カンボジアでは養鶏場経営などの実業を手掛けるとともに学校建設などボランティア活動も行う。 -2012年末にはカンボジア国籍を取得し、伯爵に相当する「オンニャー」の称号を授与され「オンニャー忠叡」を名乗る。 -2026年2月8日午後、東京都渋谷区恵比寿の自宅から病院に救急搬送されたが誤嚥性肺炎で死去。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 - 川内組に入る前は同じ菅谷組天心会富士宮支部代行で川内が天心会佐々木竜二(丸山清)から貰い受けるがこれが川内弘暗殺のきっかけとなる後藤組と天心会の抗争を起こすことになる。 -- &new{2026-02-08 (日) 10:32:44}; - 2026年2月7日午前、都内の病院にて逝去 -- [[関東]] &new{2026-02-09 (月) 13:06:18}; #comment ~
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