土谷 豊
土谷 豊(つちや ゆたか)は日本の元ヤクザ。暴力団・初代土谷会会長。
略歴
- 現在の福岡県北九州市県門司の大長組出身である。
- 1923年(大正12年)1月1日、大長組組長の大長健一が、福岡県門司市常盤町2丁目(現:福岡県北九州市門司区老松町)で生まれた。父・若一は、沖仲仕の小頭だった。部屋仲仕は常時30数人を抱えており、母の名前は静江。弟は、大長定雄(後の大長組幹部)。幼い頃は、母方の姓である大塚を名乗っていた。静江の弟は、博徒・大塚兼雄?だった。静江の妹・絹江と早死にした最初の夫との子供が、博徒・大塚重雄(中間市の大野一家・大野留雄組長の四天王の1人、竹下浅市の兄弟分)だった。絹江が再婚して土谷家の嫁となり、生んだ子供が、土谷 誠(後の土谷組幹部)、土谷信義、土谷 豊(後の[[土谷組初代組長)の土谷3兄弟だった。
- 1936年(昭和11年)母・静江の妹・絹江(再婚して土谷家の嫁になっていた)が、土谷 豊を生んだ。
- 1956年(昭和31年)3月、土谷信義は、石井一郎(後の三代目山口組若中)と四分六の兄弟盃を交わし、石井一郎の舎弟となった。同月、土谷 誠・土谷 豊・土谷信義の土谷3兄弟や大長組組員・稲葉 実(後の五代目山口組若中)が石井組に移った。石井一郎は、土谷 誠に佐伯市の地盤を与えて、そこに住まわせた。
- 1958年(昭和33年)12月8日、別府発午後7時21分日豊本線上りの急行列車「高千穂」(西鹿児島(現・鹿児島中央)発東京行き)で、大長組幹部・松村武旺?(本名は洪炳烈)が、三代目山口組石井組組員らに刺殺された急行高千穂号事件が発生し、大長組と石井組の抗争に突入した。
- 1959年(昭和34年)1月までの間に、土谷 豊は、山本清、斉藤和雄?、宮倉徹?らを集めて、門司市内に、土谷組(後の工藤會土谷組)を結成した。土谷豊は、大長組が守りをするパチンコ店の従業員に話をつけて、従業員に裏からパチンコ玉を出させ、パチプロを雇って、パチプロに土谷組の護衛を付けさせ大勝させていった。パチンコ店から、土谷組の不正な行動が、大長組金庫番兼代貸格・豊島一広に伝えられた。
- 同年1月下旬、豊島一広は、防府市の兄弟分と若衆10人を連れて、土谷豊と山本清と河野信夫の3人を、三光寺境内に連行した。豊島一広と防府市の兄弟分が、土谷豊に鎧通しを突きつけ、若衆たちが山本清と河野信夫に日本刀を突きつけて、大長組が守りをするパチンコ店に手を出さない様に脅迫した。
- 1959年(昭和34年)1月27日、門司市栄町の上海パチンコ店で、土谷組組員数人が遊んでいたところ、大長組組員が追い出したが軋轢が残り、ほぼ抗争寸前に陥った。
- 1970年(昭和45)9月19日未明、大長組組長の大長健一、宮崎斉蔵((通称:関門の虎。後の大長組幹部)が、キャバレー「月世界」からの帰り際、大長組幹部・土谷 誠と競輪のコーチ屋・猿渡と出会った。大長健一は、競輪のコーチ屋・猿渡に罵声を浴びせ殴られた。
- 同日午後10時頃、土谷 誠は、近くの食堂「満作」から刃渡り30センチくらいの刺身包丁を持ち出した。その直後、キャバレー「月世界」のカウンター付近で、大長健一は、土谷誠に刺身包丁で、左腹部を刺された。宮崎斉蔵は、土谷 誠に刺身包丁で、みぞおちを刺され大長は出血多量により死亡、宮崎は重症だったが助かった。
- この項目は書きかけ項目です。
- 役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
- 編集される際は「テキスト整形のルール(詳細版)」をご覧下さい。
- 他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【加筆・編集依頼】から編集対象のページタイトル・編集内容をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。
- 運営宛に編集依頼する場合は【メールで編集依頼】から依頼して下さい。
- ※悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。
【他の利用者に編集協力を依頼する】