黒澤明
黒澤 明(くろさわ あきら、1934年-2011年)は、日本の元ヤクザ。三代目山口組・黒澤組元組長。
略歴
- 1934年(昭和9年)12月19日生まれ。柳川組出身であり、佐々木組組長・佐々木道雄の舎弟。佐々木組の前身である地道組を経て、三代目山口組若中に昇格。
- 三代目山口組組長・田岡一雄からの信頼も厚く、次期執行部入りが確実視されていた。10年戦争と言われた沖縄抗争の解決に奔走し、また、反山口組の関西二十日会とのパイプを築くなど外交手腕は高く評価され「山口組のキヤッシンジャー」と呼ばれた。
- 1960年、山口組の大阪進出の足がかりとなり、柳川組が名を揚げるきっかけとなった「明友会事件」では抗争の先頭に立ち、懲役13年の刑を受け、広島刑務所に服役。
- 1981年7月23日、三代目・田岡一雄が病没。
- 1982年2月4日、田岡一雄の後を追う様に若頭・山本健一が病没。跡目候補筆頭である若頭を失ったことで、竹中組・竹中正久派と山広組・山本広派で跡目争いが起こる。
- 1984年、竹中正久が四代目を継承したことに反発した山本広(山広組組長)や加茂田重政(加茂田組組長)らが山口組を脱退して一和会を結成。四代目山口組と一和会は「山一抗争」に突入した。
人脈的には一和会側に近かった黒澤だが、恩義ある「菱の代紋」に弓は引けず、兄貴分が一和会幹部である以上、けじめをつけずに山口組に残ることはできないという岐路に立たされる。
- 同年、四代目山口組、一和会のどちらにも参加することなく引退。
- 2011年(平成23年)11月7日、死去。
グリコ森永事件への関与説
- 黒澤を語るうえで外せないのが「グリコ森永事件」との関連である。
- 1990年(平成2年)ごろから、捜査本部が黒澤をターゲットに絞った。黒澤が1979年(昭和54年)にグリコから5億円を脅し取ろうとして拒否された過去があること、元組長の銀行口座に被害にあった企業の関係者から3億円の入金があったこと、犯行に使われたのと同種の和文タイプライターやタクシー払い下げ車両を親族が所有していること、グリコに恨みを持つ人物が周辺にいたこと、53年テープに登場する人物と接点がある事等が疑惑の根拠だった。
捜査本部は1992年(平成4年)3月に元組長を始めとするグループに任意同行を求めて事情聴取を行ったが、容疑を認める者は誰もおらず、また物証もなかった。主要なメンバーにはアリバイもあった。
捜査本部が最後に総力を挙げて取り組み、グリコ・森永事件の捜査史上最大とも言われるこのグループへの捜査だったが、これをもって事実上、グリコ・森永事件の捜査は終了した。
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