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#author("2023-05-06T12:19:27+09:00;2023-02-01T00:51:25+09:00","","")
* 間ノ川一家 [#fa11e6e4]
&size(16){''間ノ川一家''(あいのかわいっか)は長野県に本拠を置いた博徒一家。};
''間ノ川一家''(あいのかわいっか)は長野県に本拠を置いた博徒一家。
** 略歴 [#h3a9c996]
-別名・''間ノ川一家信州''。
***間ノ川政五郎 [#l56599a3]
-天明8年、高瀬茂高(後の[[間ノ川政五郎]])は上野国邑楽郡大久保の富豪高瀬家の七代目高瀬仙右衛門(高瀬平八)の次男に生まれる。
-高瀬家は代々大久保村(群馬県板倉町)の廻船問屋であった。
-茂高の兄は高瀬常蔵(八代目高瀬仙右衛門)といったが、若い頃から遊び好きで、女性と揉め事を起こし金銭強要されたことから、この女性を殺害してしまい、訴訟を起こされた。この訴訟費用が嵩んだことや、 平八が若死していたことから、茂高が幼い時家は没落していた。
-茂高は平八が吉原から連れてきた[[吉原久次郎]]の実子で平八の古くからの知り合いである博徒・[[間ノ川新八]]([[間ノ川一家>間ノ川一家(群馬県)]]初代)のもとに預けられ15歳の頃から賭場に出入りし博徒となった。
-博徒修行のため東海道一帯を旅し、甲州、信州を巡り、越後の長岡に腰を落ち着けた。
この時は''越後政五郎''と呼ばれていた。旅の途中、政五郎の度胸の良さと男気で、各地で色々な伝説を残し、博徒として一人前となっていった。
-その後、信州善光寺門前町の権堂に移り、遊女常設の旅籠上総屋を経営した。
-当時は''上総屋源七''と名乗った。
-当時この辺りは、善光寺参りの人に紛れて、各地から追手から逃れた博徒が集まり、地元の者からもこれらヤクザ者管理の要請があったためである。
-この当時、政五郎は40歳近くで、子分二千人余りを抱える上州出身の親分に成長していた。
-[[国定忠治]]が信州に逃亡した際、善光寺権堂の政五郎の世話になったという話もある。
-政五郎が42歳になった時、考えるところがあって、弟分の[[島田屋伊伝次]]に縄張りを譲った。
堅気となって、故郷の邑楽郡大久保の生家に戻り、没落した高瀬家の再興を図った。
故郷に戻った当時は''大久保政五郎''と名乗った。
-生家の立て直しをして九代目高瀬仙右衛門を名乗り、文政11年には関東取締出役の案内役(関東信越地方の逃走悪漢凶徒の捕役)になった。
-その後名主を務め、最後には川俣組合40ヶ村の大惣代をも務めた。
-晩年は自分の無学を恥じて、日夜読書に努めたと言う。
-万延元年12月25日、死去。73歳。
***島田屋伊伝次 [#z8c422fa]
-[[間ノ川政五郎]]の跡目を継ぎ、[[間ノ川又五郎]]に跡目を譲る。
***間ノ川又五郎 [#pc3aa587]
-[[間ノ川又五郎]]は[[島田屋伊伝次]]の盃を受けていた。
-勢力範囲は、善光寺平一帯を中心に、東は関八州、西は美濃中山道、南は東海道に及び、子分身内三千人と言われた大親分であった。
-又五郎亡き跡は斉藤平作が跡目を継いだ。
** 系譜 [#ucde00b8]
初 代 - [[間ノ川政五郎]]こと高瀬茂高
二代目 - [[島田屋伊伝次]]こと高橋伊伝治
三代目 - [[間ノ川又五郎]]こと佐山忠輝
四代目 - [[間ノ川平作]]こと斉藤平作
五代目 - [[間ノ川平蔵]]こと斉藤平蔵
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