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* 益田啓助 [#xb4700ef]
''益田啓助''(ますだ けいすけ、1928年8月25日 - 2003年7月13日)は日本の元ヤクザ。指定暴力団・五代目[[山口組]]元舎弟頭、[[益田(啓)組]]元組長。
** 概要 [#qe6bf7d5]
''益田啓助''(ますだ けいすけ、1928年8月25日 - 2003年7月13日)は日本の元ヤクザ。指定暴力団・五代目[[山口組]]舎弟頭、[[益田(啓)組]]組長。[[安原会]]出身。
** 略歴 [#t2527cc7]
-徳島県生まれ。
-横浜[[益田組>益田組]]初代・[[益田佳於]]は実弟。
-[[心腹会]]初代・[[尾崎彰春]]は従兄弟。
** 略歴[#pe53f6a5]
-1943年9月、第2期海軍特別航空隊へ入隊する。
同年9月、鹿児島県鹿屋航空隊で教育中の1945年8月15日、18歳で終戦を迎え郷里である徳島へ戻る。
後に従兄弟の[[尾崎彰春]]、実弟の[[益田芳夫>益田佳於]](後の[[益田佳於]])を頼り神戸へ移住。
-1947年、神戸市新開地の稲荷市場に下宿する。
この下宿屋は元々「蛸文」という魚屋であり、その主は三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]の舎弟・中坂文八であった。
この下宿屋には、[[山本健一]]、[[前田豪]]、[[益田芳夫>益田佳於]]、[[尾崎彰春]]、[[大平一雄]]など、後に[[山口組]]の中核を担うことになる人物が多く下宿していた。
-三代目[[山口組]]若頭・[[安原政雄]]会長が率いる[[安原会]]から、1957年2月、三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]から親子盃を受け三代目[[山口組]]若中となる。
-1959年、[[益田 (啓) 組 >益田(啓)組]]を結成。同組の幹部、神戸・[[三橋勇次]]、奈良・[[久保昭]]、和歌山・[[岸三郎]]、名古屋・[[犬飼茂夫]]らがそれぞれに居宅を置いていた。
-1960年8月12日、''[[明友会事件]]''が勃発すると抗争に参戦し、舎弟の三橋勇次、安原会組員の[[佐野晴義]]らと逮捕される。
-1962年、社会不在中に益田(啓)組・初代若頭[[久保昭]]、幹部・[[岸三郎]]、数百人の部隊と共に敵地の福岡に乗り込んで検挙された「博多事件」に参戦し、[[山健組]]組長・[[山本健一]]から絶大な信頼を受ける。
-1967年2月、社会不在中、当時三代目[[山口組]]若中で初代横浜[[益田組>益田組]]組長・[[益田芳夫>益田佳於]]が後見人となり同組幹部・犬飼茂夫が名古屋市南区豊田本町に[[犬飼興業]]の事務所開きを行った。
-1970年4月、益田啓助は三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]の命を受け神戸から名古屋市瑞穂区駒場町に本拠地を移し、益田啓助は犬飼興業の舎弟、若衆に盃を与え舎弟、若中に昇格させ組織の拡大を行った。その後、初代若頭・久保昭は、跡目を[[江刺浩司]]に譲り引退。犬飼茂夫も病気療養のため跡目を古市一馬に譲り引退した。
-1971年4月、[[導友会]]初代会長・[[古川竹男]]と親戚となる。
-1974年11月、[[益田 (啓) 組 >益田(啓)組]]・和歌山支部長、[[岸三郎]]率いる和歌山支部で、支部組員1名が地元の博徒系独立組織・四代目[[佐々木組>佐々木組(山口組)]]組員2名と市内繁華街で口論となり殴る蹴るの暴行を受け重傷を負った。その後、小競合いとなり、これに反撃。益田 (啓) 組和歌山支部・若頭で同組若中・[[岸勲]]、支部組員数人と名古屋の益田 (啓) 組内皆良田興業・若頭で同組若中・[[松岡勝美]]、配下組員数人も岸勲らと行動を共にした。対立組織組員佐々木組組員2名を拉致監禁し暴行を加え重傷を負わせ2名とも市内病院の玄関へ放置した。また、配下組員数名が佐々木組事務所へ数発、発砲した。これを和歌山署が察知し警戒中、当時、三代目[[山口組]]若頭補佐・[[白神組]]組長・白神一朝(後の[[一和会]]常任理事・[[白神英雄]]) が仲介に入る。同年12月、和歌の浦 料亭 (泰弘坊) にて手打が行われた。同組員、傘下組員らは拉致監禁、殺人未遂、銃刀法違反、凶器準備集合罪等で逮捕され服役する。
-1978年、「[[大阪戦争]]」勃発。これに関連し同組員数人が凶器準備集合罪、銃刀法違反等で逮捕される。
-1981年、三代目[[山口組]]・[[弘田組]]・[[司興業]]組員と[[導友会]]・[[浜健組]]組員とが街で喧嘩をした。[[司興業]]組員が[[浜健組]]の事務所へ謝罪に行くと、[[司興業]]の組員達は暴行を受けた。これに対して[[司興業]]でも返しを行い、金沢市にある[[導友会]]・[[坂林組]]に[[弘田組]]組員が乱入し、組員2人に重軽傷を負わせる事件が起きた。
三代目[[山口組]]直系若衆で名古屋の[[山口組]]勢力の長老格である益田啓助と、地元的屋組織の双葉会会長・[[森田道竹]]が和解に奔走して、抗争はわずか4日で終わった。
-1983年8月23日、三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]・三回忌供養盆おどり、が行われた。[[益田啓助]]に同組幹部が同行、[[小山悟]]、[[田中正信]]、[[松本信義]]、[[東英樹]]、[[岸勲]]、[[松岡勝美]]らがボディーガ一ド役を務めた。
-1984年8月5日―1989年3月30日「[[山一抗争]]」勃発。これに関連し同組員数人が凶器準備集合罪、銃刀法違反等で逮捕され服役する。
-1990年代、地元名古屋の[[導友会]]三代目会長・[[花村昭和]]を舎弟とした。[[花村昭和]]は[[益田(啓)組]]舎弟頭に就任した。
-1993年6月、[[福博会]]初代会長・[[梅津明]]が五代目[[山口組]]・[[渡辺芳則]]の代紋違いの舎弟となった時、取持人を務めた。
-1993年11月、五代目[[山口組]]・[[伊勢志摩連合会]]の兄弟血縁式、親子血縁式の検分役を務めた。
-1957年2月、三代目[[山口組]]直参に昇格。
-1984年6月、四代目[[山口組]]舎弟に直る。
-1989年5月、五代目[[山口組]]舎弟頭に就任。
-1997年2月、引退。
-2003年7月13日、74歳で死亡。
-1957年2月、三代目[[山口組]]若中。
-1984年6月、四代目[[山口組]]舎弟。
-1989年5月、五代目[[山口組]]舎弟頭。
-1997年2月、益田啓助の破門に伴い、益田(啓)組は解散、組員の大半は初代[[弘道会]]へ移籍する。
-2003年7月13日、死去。
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