#author("2023-03-09T00:58:50+09:00","","")
#author("2023-03-13T01:16:59+09:00","","")
* 瀬戸一家[#v219a603]
&size(16){''十代目瀬戸一家''(せといっか)は[[愛知県瀬戸市孫田町26:https://maps.app.goo.gl/9oSU5U7E8VveTqMt9]]に本部を置く暴力団で、指定暴力団・六代目[[山口組]]の二次団体。};
#ref(山口組/山口組.jpg,right,nowrap,画像)

** 略歴[#ofac7870]
#ac(h,alt){{
-幕末の頃、尾張国東春日井郡水野村(現在の瀬戸市水野地域)に[[水野吉五郎]](加藤吉五郎とも)と呼ばれる者が博徒の親分となる。一説には東濃地方の[[梅屋一家]]の子分であったとされるが確かではない。
この頃は一家の名はなく[[水野吉五郎]]の子分に[[北熊実左衛門]](本名:近藤実左衛門)、[[瀬戸愛吉]](本名:井上愛吉)、[[今村伊三]]らがいた。
-明治初年頃、[[水野吉五郎]]は跡目を[[北熊実左衛門]]へ譲り、1884年(明治17年)に没する。[[北熊実左衛門]]は明治維新の際、尾張侯の越後隊へ加わり会津戦争へいったため、費場所を[[今村伊三]]へ預けた。[[瀬戸愛吉]]は自分より格下の[[今村伊三]]へ費場所を預けられたことに不満を持っていた。
[[北熊実左衛門]]が戦争より帰ると親分の''吉五郎一家''を名乗らず自身の住居である愛知郡北熊村(現在の長久手市北熊)をとり''[[北熊一家]]''を名乗った。これに対し[[瀬戸愛吉]]は[[北熊実左衛門]]を絶縁し、自身の住居である東春日井郡瀬戸村(現在の瀬戸市の一部)より''瀬戸一家''を名乗った。これより瀬戸一家と[[北熊一家]]は勢力争いをしていくこととなった。
-[[瀬戸愛吉]]には実子の愛金こと[[瀬戸金之助]]、子分の[[河本良助]](通称:ドン尻屋良吉)らがいた。
-1884年(明治17年)、[[瀬戸愛吉]]が2年の懲役刑を受け獄死した。
-[[瀬戸愛吉]]の実子である[[瀬戸金之助]]は東濃太田の大親分である[[梅屋一家]]・[[梅屋嘉六]]の子分となってその跡目を継承するが瀬戸町に住み、東濃地方をも費場所として領した。本来であれば[[瀬戸愛吉]]の跡目は子分である[[河本良助]]が継承するべきであるが、[[瀬戸金之助]]が二代目を継承した。
-この頃広大な費場所を有し勢力も増したため''東海道第一''と称された。
子分に''四天王''小森守一(大井派を起こす)、佐金次こと佐藤金次郎(岐阜県笠原)、安藤義一、[[建中寺政五郎]]こと平野政五郎がおり、実弟の志貫之助こと浅井梅太郎、二宮こと浅井竹次郎、舎弟の片桐新太郎、水野丑次郎らは四天王と合わせて''天下''(又は''八天下'')と称された(瀬戸一家と覇を競った[[信濃屋一家]]も同様に''八天下''と呼ばれる配下がいた)。また舎弟の妻木常八こと小林常八(品野派を起こす)、松波甚六(高山に松波派を起こす)、子分の[[松原繁十]](後の三代目)、関東熊こと吉沢熊吉(多治見派を起こす)らも傑出していた。
子分に''四天王''小森守一(大井派を起こす)、佐金次こと佐藤金次郎(岐阜県笠原)、安藤義一、[[建中寺政五郎]]こと平野政五郎がおり、実弟の志貫之助こと浅井梅太郎、二宮こと浅井竹次郎、舎弟の片桐新太郎、水野丑次郎らは四天王と合わせて''天下''(又は''八天下'')と称された(瀬戸一家と覇を競った[[信濃屋一家]]も同様に''八天下''と呼ばれる配下がいた)。また舎弟の妻木常八こと小林常八(品野派を起こす)、松波甚六(高山に松波派を起こす)、子分の[[松原繁十]](後の三代目)、[[関東熊>関東熊五郎]]こと吉沢熊吉(多治見派を起こす)らも傑出していた。
-1907年(明治40年)頃、[[瀬戸金之助]]が死亡した。
-[[瀬戸金之助]]の死後、実力は四天王に劣っていたものの、金回りがよく親分孝行をした[[松原繁十]]が[[瀬戸金之助]]の遺言により三代目を継承した。小森守一、吉沢熊吉、小林常八、松波甚六がそれぞれ大井派、多治見派、品野派、松波派を興した。[[松原繁十]]の子分は[[桜井林蔵]]、鈴太郎こと加藤幸助が傑出していた。
-[[瀬戸金之助]]の死後、実力は四天王に劣っていたものの、金回りがよく親分孝行をした[[松原繁十]]が[[瀬戸金之助]]の遺言により三代目を継承した。小森守一、[[吉沢熊吉>関東熊五郎]]、小林常八、松波甚六がそれぞれ大井派、多治見派、品野派、松波派を興した。[[松原繁十]]の子分は[[桜井林蔵]]、鈴太郎こと加藤幸助が傑出していた。
-1906年(明治39年)4月23日、[[松原繁十]]が病没。
-[[松原繁十]]病没後、子分の[[桜井林蔵]]が四代目を継承した。[[桜井林蔵]]の子分は[[中島勇五郎]](本名:中島勇治郎)を初め要吉こと梅村二三、黒鉄または鉄五郎こと山本鉄次郎、田辺桑治郎らが傑出していた。
-1919年(大正8年)頃、[[中島勇五郎]]が五代目を継承。[[中島勇五郎]]は、1890年(明治23年)に[[北熊一家]]との抗争で殺害された中島森太郎(二代目・[[瀬戸金之助]]の子分)の実子であり、大工職人を目指していたが[[桜井林蔵]]の子分となった。跡目継承後自らを大正の[[国定忠治]]と称し一家を発展させた。
-[[川島五郎]](本名:羽田俊)が六代目を継承した。
-[[田中治六]]が七代目を継承した。 
-[[小林金次]](本名:小林一夫)が八代目を継承した。
-1961年、[[日本国粋会]]と中津川抗争を起こす。
-瀬戸一家は侠神会(瀬戸市)、東濃会(岐阜県)、三州会(三河地区)、真誠会(名古屋市)の4ブロック制をとった。
-1983年6月、[[中京戦争]]と呼ばれる瀬戸一家・侠神会と[[運命共同会]]・[[愛豊同志会]]・[[中京浅野会>浅野会(弘道会)]]との抗争が起こり、同年7月に[[愛豊同志会]]総裁・[[河澄政照]]が射殺された。
1984年7月に抗争は終結し、[[小林金次]]は八代目総裁を引退。
-1985年4月20日、[[小林金次]]は抗争終結に不満を持っていた旧[[愛豊同志会]]の組員によりに射殺された。
-1986年6月、八代目・[[小林金次]]の一周忌が過ぎ、[[渡辺啓一郎]]が九代目を継承した。
-[[中京戦争]]後、[[運命共同会]]、[[導友会]]、[[稲葉地一家]]、[[平野家一家]]とともに反[[山口組]]組織の親睦団体である[[中京五社会]]を結成した。
-1991年、[[運命共同会]]・[[鉄心会]]の一部の組員が上部団体の[[運命共同会]]に対して、五代目[[山口組]]・[[弘道会]]への移籍を求め、[[運命共同会]]は移籍を求めた[[鉄心会]]組員約60名を破門にした。
同年1月26日、[[名古屋抗争]]が勃発。
同年2月に抗争は終結したが、その後[[運命共同会]]は実質的に崩壊し、[[中京五社会]]も瓦解した。
-同年3月、[[渡辺啓一郎]]が五代目[[山口組]]組長・[[渡辺芳則]]から盃を受け、若中として加入した。
-2008年、[[渡辺啓一郎]]が引退し、[[清田健二]]が十代目を継承した。
-2022年2月23日、[[清田健二]]は六代目[[山口組]]幹部を辞し、筆頭若中になる。
}}
** 系譜[#y804fdec]
 祖  - [[水野吉五郎]]こと加藤吉五郎
初 代 - [[瀬戸愛吉]]こと井上松吉
二代目 - [[瀬戸金之助]]こと井上清澄
三代目 - [[松原繁十]]
四代目 - [[桜井林蔵]]こと桜井多市
五代目 - [[中島勇五郎]]こと中島勇治郎
六代目 - [[川島五郎]]こと羽田俊
七代目 - [[田中治六]]
八代目 - [[小林金次]]こと小林一夫
九代目 - [[渡辺啓一郎]](六代目[[山口組]]若中)
十代目 - [[清田健二]]
** 十代目瀬戸一家組織図[#udb1df06]
総 裁 - [[清田健二]](六代目[[山口組]]若中)
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