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*左沢小文治 [#u41a150a]
''左沢小文治''(あてらざわの こぶんじ、本名・柴田小文治)は幕末の侠客。[[左沢一家]]初代。
**略歴 [#j6bfb837]
-山形県西村山郡左沢の人。
-左沢小文治こと柴田小文治勝之(幼名定吉)は、村山市大槙反田の農家に生れで、小文治が最初に人を殺めたのは、近村の太吉の愛人おいそである。
小文治は家のためにならないからやったと後年述懐したそうだが、かくて彼は国を売る。
-男を磨いて帰郷しかせぎ場としたのはミナト町の左沢。暗い世相に勢力を伸張させてゆくやくざ、時代劇の材料にはこと欠くことはない。
[[国定忠治]]、[[黒駒勝蔵]]、[[笹川繁蔵]]、[[清水次郎長]]等々、小文治はこれらの大親分にならわんとしたわけである。念願通り彼は地方切っての大親分となった。その時に維新の戦争である。当時、左沢は庄内支藩松山の酒井忠良の領地となっていた。庄内藩が進撃したので左沢はこれにしたがう。代官天利十右衛門を通じて小文治は参戦を申し出る。庄内軍としては願ってもないことだが、山形大学長井教育学部長によると、小文治は120人、彼の親分にあたる中郷の[[後藤文治]]が80人、合計200人の子分を動員して参加したらしいとのことだ。
-左沢の称念寺にある左沢ノ小文治墓裏面に明治十五年七月二十九日とあるが、歿年か建之か判らない。その近くに長男後藤修蔵の墓があり、建立日を明治四十年三月十五日で、修蔵墓を建てた人は北谷地斉藤吉五郎、寒河江安孫子金吉、宮宿菅井文作の三人となっている。
-左沢の菅野助役は、修蔵の古い戸籍をたどってくれたが、後藤修造 弘化三年正月十一日生(一八四六)西田川郡紙漉町士族柴田勝之の長男で後藤幸作に養子になったことが記録されている。
-小文治の庄内軍に参加したかげには士分に取り立ててもらう願望もあったといわれるがが、これでみるとその願いも達せられたようである。鶴岡の紙漉町といえば軽輩の士族たちが居住していた町だ。柴田勝之が一戸をあたえられたにしてもほんのわずかの期間であったろう。明治の御一新となってはなじみの薄い鶴岡にいてもせんのないことである。左沢に舞もどって貸元としてばくちでかせぎ芝居の興行もやる。彼が居住していたのは天神前といわれるが、天神前はそのころ町でもっとも賑やかな町であった。ハクチにはつねに長ドスが閃き、血が流される。称念寺の向い、会津屋清野ゆきが聞き伝えている出入りにこんなことがある。相手はわからないが、十数人によって小文治宅に殴り込みをかけられたことがある。修造が養子に行った後藤幸作は貸座敷を業としていたし、遊廓と彼らの生活は切りはなせないものだし、幸作もまた遊侠の徒であったのだろう。修造もまた父の業を継ぐが、親のようにはいかなかった。また特別の事情があってのことであろうが、自殺している。
-小文治の二度目の妻は左沢の後藤重助の二女、文政五年(一八二二)三月の生で明治三十三年に死んでいる。晩年の小文治は悲惨だった。経済的にではなく、精神的にである。彼はいついかなるときでも枕頭から長脇差を手ばなしたことはなかったという。しかも刀を手ばなさないということばかりでなく、毎夜のように夢魔にうなされていたという。
-最後は誰かに殺されて最上川に流されたと伝えられている。身内の兄弟分に大久保ノ直吉、山口ノ太吉、海味ノ玉蔵などがいた。
-天童市の仏向寺にある[[風間ノ金兵衛]]墓に施主大牧村・柴田小文治とある。
-墓所は山形県西村山郡大江町左沢の称念寺。


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