#author("2023-03-09T01:37:56+09:00;2022-08-22T10:02:12+09:00","","")
* 川内組[#xe320673]
&size(16){''二代目川内組''(かわうちぐみ)は福井県あわら市に本拠を置いた暴力団で、指定暴力団・六代目[[山口組]]の元二次団体。2014年に解散した。};
** 略歴[#lba9f5ea]
*** 初代[#p8f5c747]
-初代・[[川内弘]]は福井県三国町生まれ。愚連隊のリーダーを経て地元の暴力団幹部の盃を受けて渡世入り。
-その後、福井の博徒の親分の盃を受け、抗争事件に関与したとして服役。
-出所後、処遇に不満を持った[[川内弘]]と幼馴染の[[坪川三彦]]により''川内組''が結成される。
-1963年、三代目[[山口組]]・[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]組長・[[菅谷政雄]]の盃を受け舎弟となる。
-[[川内弘]]は「ボンノ」の愛称で一世を風靡した[[菅谷政雄]]組長率いる[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]傘下で「北陸の帝王」と呼ばれた。
-1973年12月1日、[[川内弘]]は、副組長・[[坪川三彦]]を絶縁し、実弟の[[川内重信]]を副組長に据えた。
-1974年3月、静岡県富士宮市で、川内組傘下の[[後藤忠政]]組長率いる[[後藤組>後藤組(山口組)]]と、[[菅谷組]]傘下で丸井清組長率いる一心会富士宮支部との内部抗争が勃発。
[[菅谷政雄]]は、舎弟頭の浅野組組長・[[浅野二郎]]に処理を一任し、[[浅野二郎]]は丸井清に有利な裁定を下した。[[川内弘]]はこの裁定を不満として[[山口組]]本部に訴えた。
-1975年2月9日、川内組舎弟頭・[[宮原省治]]が、絶縁された[[坪川三彦]]の子分・古賀祐次に猟銃で撃たれ重傷を負った。
[[川内 弘>川内弘]]は[[坪川三彦]]への報復を指示したが、舎弟頭・[[浅野二郎]]が川内弘と[[坪川三彦]]を仲裁した。
-同年6月、[[浅野二郎]]を交えて[[川内弘]]と丸井清の3者で話し合う段取りを取ったが、[[川内弘]]は[[浅野二郎]]に無断で福井に帰省したため電話で口論となり、[[菅谷政雄]]に[[川内弘]]の行動を報告、[[菅谷政雄]]が電話をかけたが連絡が取れなかった。
同月、[[菅谷政雄]]の舎弟・[[波谷守之]]が、[[浅野二郎]]に代わって[[川内弘]]を訪問したが面会を拒否。
同月、[[川内弘]]は[[浅野二郎]]と和解し、[[菅谷政雄]]に詫びを入れ対立は一旦収まった。
-1976年、[[川内弘]]は、[[菅谷政雄]]に[[山口組]]直参への推薦を求めたが[[菅谷政雄]]は推薦しなかった為、映画プロデューサーを通じて[[山口組]]若頭補佐・[[山本広]]に直参昇格を求めた。
-1977年1月14日、[[菅谷政雄]]は直参昇格を画策した[[川内弘]]を破門処分とした。
[[川内弘]]は[[山口組]]・井志組・井志繁雄組長を通じて、[[菅谷政雄]]に詫びを入れたが破門は解かれなかった。
-同年2月、[[坪川三彦]]は兄弟分である浅野組副組長・小山敏夫とともに組長・[[浅野二郎]]を訪ねて舎弟盃を求め、[[浅野二郎]]は[[坪川三彦]]を舎弟とした。
[[坪川三彦]]は、川内組から破門されていた木村忠雄や福矢正栄、[[川内組]]組員・加納一恵らとともに「''共進会''」を結成。加納一恵は、[[川内弘]]に「逆縁状」を送った。
-[[山口組]]本部は[[浅野二郎]]に対し、「浅野二郎が坪川三彦を拾うならば、山口組は川内弘を拾う」という通達を出した。
これに対し[[浅野二郎]]は「坪川三彦は自分の舎弟ではなく、浅野組副組長・小山敏夫が兄弟分を応援しているだけである」と回答した。
-同年3月1日、共進会は福井県福井市順化2丁目の小料理屋「あゆみ」を事務所として、小山敏夫らを招いて事務所開きを行った。
同日午後9時、川内組組員・人見秀之と、川内組・宮原組準幹部・石田直生が、共進会の事務所に乗り込み拳銃を乱射しようとしたが銃弾が発射されなかった。人見秀之と石田直生は警察に逮捕された。
-共進会は事務所を小料理屋「あゆみ」から[[坪川三彦]]の自宅に移し、浅野組に[[川内弘]]への報復の許可を求めた。
小山敏夫や浅野組若頭補佐・首藤新司ら4人が協議の結果、共進会の報復を了承し、浅野組から共進会へ応援を送ることを決め、首藤新司が応援に行くことが決まった。
-同年4月8日夕方、首藤新司は拳銃3丁を持参し、[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]・[[波谷組]]組員・延岡朝夫と、[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]・[[波谷組]]・藤島組準構成員・田中政治と共に、共進会の応援としてタクシーで福井県に向かった。
-同日、首藤新司、延岡朝夫、田中政治は、敦賀市のドライブイン「塩荘」で[[坪川三彦]]と加納一恵と合流。5人は[[坪川三彦]]の自宅に行き襲撃場所を福井県三国町(現・坂井市)の喫茶店「ハワイ」とした。
首藤新司は、持参した拳銃3丁を[[坪川三彦]]に渡し試射を頼んだ。
-同日夜、首藤新司、延岡朝夫、田中政治は、金沢の加納一恵の家に宿泊し、翌日は三国町松島の民宿「あらや」に移った。
さらに吉崎温泉の旅館「紫水館」に移り、3人は銃身を切ったショット・ガンと、拳銃2丁を受け取った。

【[[三国事件]]】
-1977年4月13日正午過ぎ、首藤新司は、喫茶店「ハワイ」を見張っていた加納一恵から「[[川内弘]]がハワイに入った」という電話を受けた。
首藤新司、延岡朝夫、田中政治の3人は、S&W回転式38口径を持参していた共進会会員・中川徳治の運転する車で喫茶店「ハワイ」に向かった。
同日午後1時5分、首藤新司、中川徳治、延岡朝夫、田中政治の4人が、喫茶店「ハワイ」店内で[[川内弘]]を射殺。護衛の高嶋弘も銃弾を受け重傷を負った。
~
-犯行後、首藤新司と中川徳治は、加賀インターチェンジから北陸自動車道に入り、パーキングの公衆電話で警察に連絡し、パトロール中の警官隊に逮捕された。
同日夕方、延岡朝夫と田中政治は武生市で警察の不審尋問を受け逮捕された。
~
-この[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]が起こした破門者殺害という事件が原因となり、[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]は[[山口組]]から絶縁処分となった。
*** 二代目 [#xebbdb2b]
-二代目組長・[[根本辰男]]は、[[山健組>山健組(山口組)]]最高幹部から五代目[[山口組]]体制で直参へと昇格した[[山健組>山健組(山口組)]]一門。
-2014年7月、六代目[[山口組]]では幹部まで務めていたが、自身の引退をめぐり六代目[[山口組]]執行部と対立。結果として引退ではなく破門となり、川内組は解散した。
** 川内組系譜 [#r844fcbc]
初 代 - [[川内 弘>川内弘]]
二代目 - [[根本辰男]]
** 二代目川内組組織図 [#q42ec0b3]
組 長 - [[根本辰男]](六代目[[山口組]]幹部)
若 頭 - [[平山 満>平山満]]([[平山組>平山組(野内組)]]組長)
----
-この項目は書きかけ項目です。
-役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
※誹謗中傷や悪戯、あらし行為、悪質な売名行為、他サイトの宣伝などは厳禁とします。
-編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。
-編集を依頼される場合、他のユーザーに編集協力を依頼する時は下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。
運営宛に編集依頼する時は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。
----
【このページの編集依頼】

#comment
~


トップ   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS