#author("2022-09-20T09:10:27+09:00","","")
* 山本健一[#t12ccb8d]
&size(16){''山本 健一''(やまもと けんいち、1925年3月5日-1982年2月4日)は、広域暴力団・三代目[[山口組]]元若頭、初代[[山健組>山健組(山口組)]]組長。};
** 略歴[#db6766b7]
-1951年頃、[[尾崎彰春]]と街を徘徊するうち、三代目[[山口組]]若頭を務めていた[[安原政雄]]([[安原会]]会長)と出会い、若衆となって[[山口組]]の傘下に入る。
-1953年、[[鶴田浩二襲撃事件]]に参加し逮捕。
-1954年、[[梶原清晴]]らと共に地元の谷崎組を襲撃、谷崎組若頭・野沢修に重傷を負わせ、懲役3年の実刑判決を受けて服役。
-1957年、刑期を終えて出所後、[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]から盃を受け直参昇格。
-1961年、[[山健組>山健組(山口組)]]を結成。
-1963年、[[田岡一雄]]の提案で設けられた執行部体制の下で若頭補佐役に就任。
-1968年、一時若頭補佐から外れていたが、新体制で再び若頭補佐に就任。
-1971年、当時の[[山口組]]若頭・[[梶原清晴]](梶原組組長)が大隅諸島 の硫黄島で磯釣り中に溺死。
同年9月、後任の若頭に就任。
当初山本は最高幹部間で行われた入れ札で[[山広組]]組長・[[山本広]]に2対4で敗れていたが、[[田岡一雄]]の指名により逆転就任することとなった。
-武闘派として[[夜桜銀次事件]]や[[広島抗争]]など数々の抗争で功績を挙げることにより、[[山健組>山健組(山口組)]]の地位を不動のものとした。
-1978年、保釈中の身でありながら「''[[大阪戦争]]''」の陣頭指揮を執り、抗争終結の記者会見を開くなどしたため、再び収監される。
-1981年7月23日、数々の功績から、[[山口組]]四代目を継ぐと目されていた中、[[田岡一雄]]三代目が逝去。
-1982年2月、[[田岡一雄]]の後を追うように''山本健一''も持病の肝臓疾患のため死去。享年56歳。
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