#author("2022-07-03T12:04:10+09:00","","") * 吉良仁吉 [#if07b408] &size(16){''吉良仁吉''(きらの にきち 本名:太田仁吉、1839年(天保10年)-1866年5月22日(慶応2年4月8日)は幕末の侠客、博徒。[[寺津一家]]三代目。[[吉良一家]]初代。[[清水次郎長]]の弟分。}; **略歴 [#vc7d65f2] -三河国幡豆郡吉良村(現在の西尾市吉良町)の博徒。 -吉良村横須賀に没落武士の子として生まれた。または三河国上横須賀村栄の百姓太田善兵衛の長男とされる。 -天保10年(1839年)11月1日、吉良町横須賀の太田善兵衛の伜に生まれ、郷土史談『荒神山』に、仁吉は草相撲の力士で四股名を『吉良錦』といったとある。 -若くして両親を亡くし、[[寺津間之助]]の子分となる。 -無口だが腕っ節と相撲が強く、相撲の上での喧嘩で博徒の親分の[[寺津間之助]]に匿われたのがきっかけとなり、 18歳から3年間を[[清水次郎長]]の下で過ごした。次郎長と兄弟の盃まで交わす仲となった後、吉良に帰り[[吉良一家]]を興した。 万延元年(1860年)頃清水ノ治郎長の処に草鞋を脱ぎ、三年間位修行し、吉良に帰って来て、若くて親分となる。 -伊勢国員弁郡穴太村の博徒・[[穴太徳次郎]]が、[[清水次郎長]]が世話をした伊勢国河曲郡神戸(現在の鈴鹿市神戸)もしくは伊勢国安濃郡神戸(現在の津市神戸)の博徒・[[神戸長吉]]の縄張りであった荒神山(こうじんやま)を奪ったため、[[神戸長吉]]に加勢して戦った。 この決闘は[[荒神山の喧嘩]]と言われ、[[神戸長吉]]側は勝利を収めたが、吉良仁吉は鉄砲で撃たれた上、斬られて死亡した。享年28。 -慶応2年4月8日歿。行年28歳。 -墓は西尾市の源徳寺にある。吉良仁吉の勇名にあやかろうと墓石を削って持ち帰る人が多かったことから、代わりに墓石の欠片が必勝かち勝石(かちかちいし)として売られている。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 ※誹謗中傷や悪戯、あらし行為、悪質な売名行為、他サイトの宣伝などは厳禁とします。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -編集を依頼される場合、他のユーザーに編集協力を依頼する時は下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 運営宛に編集依頼する時は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 ---- 【このページの編集依頼】 #comment ~