#author("2022-04-26T17:09:33+09:00","","")
* 司 忍
&size(16){''司 忍''(つかさ しのぶ、本名・''篠田 建市''(しのだ けんいち)、1942年1月25日- )は指定暴力団・六代目[[山口組]]組長。}; 
** 来歴[#s110e552]
-1942年、大分県大分市生まれ。
-大分県立水産高等学校(現・大分県立海洋科学高等学校)を卒業後、地元の大手水産会社に就職。
その後、大阪を経て名古屋に出る。
-1962年、三代目[[山口組]]系鈴木組傘下の[[弘田組>弘道会]]組員となる。
武闘派として知られ、後に[[弘田組>弘道会]]最高幹部を務め、自らの組織として[[司興業]]を旗揚げした。
-[[弘田組>弘道会]]副組長や若頭を歴任、抗争でも陣頭指揮を執っていた。
-1981年7月23日、三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]が死去。
[[弘田組>弘道会]]組長・[[弘田武志]]は、[[田岡一雄]]の後継者とされる[[山本健一]]と関係が近く、[[山本健一]]が四代目継承すれば[[山口組]]に参加するはずだった。
-1982年2月4日、[[山本健一]]が病死。
-1984年、四代目[[山口組]]組長の座を巡り、[[竹中正久]]と[[山本広]]が対立。
[[弘田武志]]は[[山本広]]支持を表明した。
司忍は[[弘田武志]]を説得し、[[弘田武志]]は[[一和会]]にも四代目[[山口組]]にも参加せずに引退を決意。
後日、[[弘田武志]]は引退報告と、司忍に杯を下ろすよう[[竹中正久]]四代目に申し出、[[竹中正久]]はそれを了承した。
-1984年6月、[[弘田組>弘道会]]の地盤を引き継ぎ「''[[弘道会]]''」を結成、四代目[[山口組]]直参に昇格。
元親分の[[弘田武志]]の一字と、その道を行く「道」の字から「弘道会」と命名したとされる。
-1989年5月、五代目[[山口組]]体制の発足に伴い若頭補佐に就任、ブロック制が導入されてからは中部ブロック長を兼任。
-1997年8月28日、護衛の配下組員に拳銃を持たせていたとする銃刀法違反容疑で同年11月に指名手配を受け、翌年6月に逮捕・起訴された。
-1999年7月、司忍は保釈金10億円で保釈。
-2001年3月、大阪地方裁判所で無罪判決を受けたものの検察側が控訴。
-2004年2月24日、大阪高等裁判所で懲役6年の逆転有罪判決を受け、上告。
高裁判決後に収監されたが、10億円の保証金で即日保釈された。

-2005年3月、[[弘道会]]の二代目を若頭・[[髙山清司>高山清司]]に譲り、司忍は二代目[[弘道会]]総裁に就任、同時に「''弘田組''」組長を名乗る。
-同年5月、五代目[[山口組]]若頭に就任。
-同年7月、六代目[[山口組]]組長に就任した。

-同年11月29日付けで上告が棄却、司忍は懲役6年の実刑判決が確定した。
-同年12月5日に出頭、大阪拘置所に収監され、翌年2月に府中刑務所に移監された。
服役中は囲碁が好きで、刑務所でもよく受刑者と碁を打ち、運動時間には30分間走るのを日課としていた。
刑務所では模範囚である一級になり、仮釈放になる仮面接にかかったが、一年近くもらえる仮釈放を断り、満期で出所している。
-2011年4月9日、未決勾留8か月・服役期間5年4か月で刑期満了となり府中刑務所を出所。
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