#author("2021-09-02T18:46:57+09:00;2021-09-02T17:12:24+09:00","","")
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* 佐古野繁樹 [#rac750b0]
&size(16){''佐古野繁樹''(さこの しげき・1945年~1981年)福岡県北九州市出身、日本のヤクザ。初代[[草野一家]]若頭・初代[[大東亜会]]会長。};
&size(16){''佐古野繁樹''(さこの しげき・1945年~1981年)福岡県北九州市出身、日本のヤクザ。初代[[草野一家]]若頭・初代[[大東亜会>大東亜組]]会長。};
** 略歴 [#c3d10e72]
-1981年(昭和56年)2月4日未明、初代[[草野一家]]若頭で[[大東亜会]]会長・[[佐古野繁樹]](35歳)が北九州小倉の堺町にあるクラブ「美松」を出た前で、別の飲食店から帰る途中、[[工藤会]]理事長・[[矢坂組]]組長・[[矢坂 顕>矢坂顕]]が偶然にも鉢合せし口論に発展した。やがて佐古野が[[矢坂組]]組員に撃たれた。お互いたった2メートル程度の至近距離から佐古野は倒れながらも矢坂を撃った。二人とも全弾撃ち尽くし、佐古野も矢坂も出血多量でその場で絶命した。
-生まれ育ちも福岡県北九州である。(小倉出身の説あり)金縁の眼鏡が特徴であった。
-1970年代後半、福岡県田川から初代[[草野一家]]田川支部長の[[天野義孝]]に引き連れられ、[[草野一家]]へ新たに加入した[[溝下組>極政組]]組長の[[溝下秀男]](後に三代目[[工藤會]]会長・四代目[[工藤會]]総裁)が、本部へ挨拶に来た。大概名の知れた人物でも、通常初めて本部内での挨拶は緊張するのだが、この溝下の場合は初対面の大幹部[[佐古野繁樹]]に対し、挨拶するどころかソファーに座る佐古野の顔を覗き込むや「おんどれ、図体ばっかり大きいても、5年したら貴様を俺の下で鎖に繋いでやるき、これまで待っちょれ、こら」と凄んだようで、佐古野は「なにこら、若造」と立ち上がり、総長の[[草野高明]]に制止された。先程も述べたが初対面である。勿論、当時の佐古野は[[草野一家]]若頭で最高幹部であり、それに対し[[溝下秀男]]は、昨日今日一家に入って来たばかりの新参者である。本来ならその時点で破門にされても文句は言えない。しかし、[[溝下秀男]]は何故か[[草野一家]]幹部らから「あれは威勢がいい」と評価され、いつの間にか不思議と[[佐古野繁樹]]と仲良くなり、信頼関係を築いていったようである。
*** 堺町事件 [#c3d10e72]
-1981年(昭和56年)2月4日未明、北九州小倉の堺町にあるクラブ「美松」を出た前で[[草野一家]]若頭・[[大東亜会>大東亜組]]会長・[[佐古野繁樹]]と、[[工藤会]]理事長・[[矢坂組]]組長・[[矢坂 顕>矢坂顕]]が偶然鉢合せし、お互い口論の末、双方が拳銃を乱射、激しい銃撃戦となった。[[佐古野繁樹]]は[[矢坂組]]組員に撃たれ倒れながらも、2メートル程度の至近距離から[[矢坂 顕>矢坂顕]]を銃撃。二人とも全弾撃ち尽くし、その場で[[佐古野繁樹]](事件当時36歳)と[[矢坂 顕>矢坂顕]](事件当時52歳)の両名は出血多量で絶命した。この「[[堺町事件]]」から、[[工藤会]]と[[草野一家]]の抗争は泥沼化し、当月だけで6件もの発砲事件が発生した。

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