#author("2022-07-07T05:57:22+09:00","","")
* 中野太郎 [#ce0bcd7d]
&size(16){''中野太郎''(なかの たろう 1936年10月30日 - 2021年1月10日)は日本の元ヤクザ。五代目[[山口組]]若頭補佐・[[中野会]]会長。五代目[[山口組]]若頭・[[宅見勝]]射殺事件を起こしたとして五代目[[山口組]]から破門、後に絶縁。「喧嘩太郎」、「懲役太郎」の異名を持った。};
** 略歴 [#efd67412]
*** 山口組 [#z7e97a04]
-大分県日田市出身。
-1970年、初代[[山健組]]内に[[健竜会]]を[[渡辺芳則]]と共に設立。
-1989年、五代目[[山口組]]発足に伴い直参に昇格。
-1990年、五代目[[山口組]]若頭補佐に就任。

-1996年7月10日、京都府八幡市の理髪店で、散髪中だった[[山口組]]若頭補佐・[[中野太郎]]が、[[会津小鉄>会津小鉄会]]系組員に銃撃される。
[[中野太郎]]のボディガードが拳銃で応戦し、[[会津小鉄>会津小鉄会]]系組員2人を射殺。[[中野太郎]]は無傷だった。
-同日、[[図越利次]]ら[[会津小鉄>会津小鉄会]]最高幹部が、[[山口組]]総本部を訪れ、[[会津小鉄>会津小鉄会]]系組員が、[[中野太郎]]を襲撃したことを詫びた。
[[山口組]]若頭・[[宅見勝]]は、[[図越利次]]らの謝罪を受け入れ、[[中野太郎]]と協議することなく和解。
[[中野太郎]]は当事者である自分の承諾なしに[[会津小鉄>会津小鉄会]]と和解した事に激しい不満を抱き、[[宅見勝]]と激しく対立した。
「''[[中野会会長襲撃事件]]''」を参照。

*** [[宅見若頭射殺事件]] [#ia6a87f7]
-1997年7月、若頭補佐・風紀委員長の[[吉野和利]]が総指揮をとり、東京都と大阪府の[[中野会]]傘下組織から、[[宅見勝]]の動向を探るための偵察部隊と襲撃するための襲撃部隊をそれぞれ選抜。
同年8月28日午後3時20分ごろ、[[山口組]]総本部長・[[岸本才三]](後に最高顧問)と、副本部長・[[野上哲男]](後に最高顧問)と共に、新神戸オリエンタルホテルのティーラウンジの一番奥まったテーブルに着いた。
その直後、[[中野会]]傘下の襲撃部隊が[[宅見勝]]を銃撃。
[[宅見勝]]は38口径と45口径の拳銃で計7発の銃弾を受け、救急車で神戸市立中央病院に緊急搬送されたが、約1時間後の午後4時32分に同病院で死亡した。
事件当時、隣のテーブルに座っていた一般人の歯科医師の男性が、流れ弾が命中し重傷を負った。
同席していた[[岸本才三]]、[[野上哲男]]は無事だった。
事件から3日後、[[中野太郎]]は[[宅見勝]]の射殺事件により[[山口組]]から破門処分。
同年9月3日、事件に巻き添えとなった歯科医師が死亡した事で絶縁処分となる。
[[中野太郎]]はこの処分を不服とし、[[中野会]]を解散せずに独立。
*** 独立組織 [#wec2ea5d]
-[[中野太郎]]は配下組員に対し、[[中野会]]残留か、他の[[山口組]]傘下組織へ異動するかの判断は各々に委ねるとした。
[[中野会]]組員は、[[山健組]]など他組織へ大量離脱した。
-[[山口組]]執行部は[[中野会]]への攻撃を厳禁とし傘下組織へ通達。
(親を殺害された[[宅見組]]および[[天野組]]等の「宅見一門」は報復行動が例外的にある程度許容された。)
-[[中野会]]本部事務所を神戸市須磨区から大阪市天王寺区生玉町へと移転。
-1998年7月6日、在日韓国人であった若頭補佐・風紀委員長[[吉野和利]]は、韓国の高級住宅地にある豪邸で家族とともに潜伏していたが、ソウルで変死体となって発見された。
ソウル警察は脳梗塞と発表していたが、[[吉野和利]]の遺体からは内臓や脳は全て除去されたおり、さらに血液をすべて搾取されていた。
後に警視庁が残された毛髪から調べ上げ、薬物による中毒死の可能性が状況的にも強く示唆され毒殺の可能性が高いという。
-1999年7月1日、大阪府公安委員会が独立組織として[[中野会]]を指定暴力団に指定。
-1999年9月1日、[[中野会]]若頭・[[山下重夫]]が大阪市生野区内の麻雀店で、[[宅見組]]若頭補佐・[[西野保]]ら襲撃チーム4人によって射殺された。
[[中野会]]は[[山口組]]から度重なる報復攻撃を受けたが、[[中野太郎]]は五代目[[山口組]]への報復攻撃を厳禁とし、一度も[[山口組]]へ報復することはなかった。
-2002年4月、単身で本土から狙い続けていた[[天野組]]・[[山下哲生]]組員により沖縄県那覇市内で[[中野会]]副会長・[[弘田憲二]]が射殺される。
-[[中野会]]は[[山口組]]から絶縁処分以降、8年にわたり独立組織として存在した。
-2003年5月、[[中野太郎]]が自宅で脳梗塞で倒れる。
-2005年8月7日、六代目[[山口組]]発足に伴い、[[寺岡修]]や[[竹中武]]らの仲介もあり大阪府警に解散届を提出。[[中野会]]を解散し引退した。
*** 引退後 [#kaa26a78]
-2018年、「悲憤」を出版。自伝の内容では、五代目[[山口組]]組長である[[渡辺芳則]]が、日頃から五代目[[山口組]]若頭である[[宅見勝]]から「五代目の座布団に座らせたのはワシや」と言われるのに耐えきれず、[[渡辺芳則]]親衛隊を自認する[[中野太郎]]に、電話で毎日「いつ殺るんや?はよ殺れ!」と催促を受けていた様で、「宅見はほっといても持病で長くないですわ」と中野が言っても[[渡辺芳則]]は、それでも宅見の始末を実行しろと要請していたらしい。結局、宅見若頭射殺事件が発生。[[中野会]]逮捕者全員の調書を全て取り寄せ、本件供述調書内容を再確認したところ、所謂「子殺し」が判明し五代目[[山口組]]組長[[渡辺芳則]]に引退の引き金になった。
-2021年1月10日未明、肺炎により死去。
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