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* 中山勝正 [#p01c8ff5]
''中山勝正''(1937年10月25日-1985年1月27日)は日本のヤクザ。四代目[[山口組]]若頭、[[豪友会]]初代会長。
**略歴 [#x69678cd]
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-1937年(昭和12年)10月25日、高知県香美郡物部村(後の香美市)で生まれた。 
その後、高知県を代表する[[中井組]]・[[中井啓一]]組長から盃を貰い中井組の若衆となり、ヤクザの世界に入る。加えてこの頃、自らも「自動車愛好会」(後の[[豪友会]]の前身)を結成し、白タクを資金源にしながら活動を行っていた。この時代での事業は大成功を収め、当時の価格で一か月に数百万単位での利益を獲得していた。なんと中山自身が18歳後半の頃である。
-1957年(昭和32年)、中井啓一は高知市議会議員選挙に立候補、中井組若頭の大黒麗夫と高知市松淵町に本拠を置いていた寺田組・寺田貢組長を選挙参謀に据えて初当選を果たす。
-少年時代から凶弾に倒れる晩年まで、中山はカタギ衆の所謂地元の『おじさん・おばさん』からは、「勝正さん」と呼ばれていた。
-1937年(昭和12年)10月25日、高知県香美郡物部村(後の香美市)で生まれた。地元中学を卒業し、町中を散策中に絡んで来たヤクザ三人を相手に殴り合いの大ケンカをした。映画のスクリーンから出て来た俳優と間違う程の二枚目な男であった。 
その後、16歳の頃に高知県を代表する[[中井組]]で下積みに入り、18歳前半で正式に[[中井啓一]]組長から盃を貰い、中井組の若衆となりヤクザの世界に入る。加えてこの頃、自らも「自動車愛好会」(後の[[豪友会]]の前身)を結成し、白タクを資金源にしながら活動を行っていた。この時代での事業は大成功を収め、当時の価格で一か月に数百万単位での利益を獲得していた。なんと中山自身が18歳後半の頃である。
-1957年(昭和32年)、中井啓一は高知市議会議員選挙に立候補、中井組若頭の大黒麗夫と、高知市松淵町に本拠を置いていた寺田組・寺田貢組長を選挙参謀に据え、初当選を果たす。
-1958年(昭和33年)、[[中井組]]組長・[[中井啓一]]は、三代目[[山口組]]・[[田岡一雄]]組長から盃を受け舎弟となり、高知県内に初めて菱の代紋を掲げた。
-1961年(昭和36年)1月に実施された市議会議員選挙では再選を目指したが、前回選挙参謀を務めた寺田貢が立候補したことなどもあり、結果的に中井も寺田も落選してしまう。この時は、前回に引き続き中井の選挙参謀を務めた大黒麗夫が、落選の責任を取って中井組若頭を辞任する事態となったが、中山は独断で寺田組の賭場に殴り込んでいる。この時、中井組系「自動車愛好会」会員1人が寺田組組員に射殺された。
-同年8月、「自動車愛好会」を現在まで続く「[[豪友会]]」に改称し、さらに10月には、中山が24歳で中井啓一より中井組若頭に任命された。この頃から[[豪友会]]へ加入する若者が増え始め、その信頼と団結力がより強固になったのもこの頃である。
-1972年(昭和47年)、多数の[[山口組]]直参からも推薦され、中井組若頭から内部昇格し、三代目[[山口組]]・[[田岡一雄]]組長から盃を貰い、[[山口組]]直参に昇格する。
-1984年7月、[[竹中正久]]の[[山口組]]四代目の継承式に反発した[[山広組]]・[[山本広]]や[[加茂田組]]・[[加茂田重政]]らが[[山口組]]を脱退、[[一和会]]を結成し[[山一抗争]]へと突入。
-1985年1月26日21時15分過ぎ、神戸の[[山口組]]新本部の上棟式の後、四代目[[山口組]]組長・[[竹中正久]]に同行していた若頭・中山勝正と、[[山口組]]・[[南組>南組(山口組)]]組長・[[南力]]は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」に着いたところを、1階エレベーター前で待ち伏せていた[[一和会]]の暗殺部隊・田辺豊記、長尾直美、立花和夫によって銃撃された。
-1961年(昭和36年)1月に実施された市議会議員選挙では再選を目指したが、前回選挙参謀を務めた寺田貢が立候補したことなどもあり、結果的に中井も寺田も落選してしまう。この時は、前回に引き続き中井の選挙参謀を務めた大黒麗夫が、落選の責任を取って中井組若頭を辞任する事態となったが、中山は独断で寺田組の賭場に殴り込んでいる。この時、中井組系「自動車愛好会」会員1人が寺田組組員に背中を撃たれ射殺された。
-同年8月、「自動車愛好会」を現在まで続く「強い漢の会として[[豪友会]]」に改称し、さらに10月には、中山が24歳で中井組若頭に任命された。この頃から上部団体[[中井組]]より、[[豪友会]]へ加入する「黒のダボシャツ集団」の若者が続々と増え始め、首領の中山に対する絶大な信頼と、会員の団結力がより強固になったのもこの頃であり、しかしそれに対し[[中井啓一]]が「不満」を持つようになったのも同時期である。
-1970年(昭和45年)4月未明、高知県高知市に広島県尾道市の初代[[俠道会>侠道会]]系組員である[[森田健介]]を中心に、その参謀として、漢の中の漢とまで言われた[[滝下健夫]]が高知支部を設立、それに激怒した[[豪友会]]とのトラブルが頻発し、後に本格的な抗争へと発展した。また、三代目[[山口組]]若頭補佐で、[[菅谷組]]組長の[[菅谷政雄]]や、同じく若頭補佐で[[小西一家]]総長の[[小西音松]]が、先を争うように高知に進出し支部を開設したが、ボンノの名前を出されても中山は全く退かず、若者でありながらも筋目を通し、[[菅谷組]]系、または[[小西一家]]系の高知支部を閉鎖させた。この話が瞬く間に広がり、三代目[[山口組]]組長の[[田岡一雄]]が強く興味を示し、後日中山と面会している。当事者の[[菅谷政雄]]も、親子ほどの年の差があるにも関らず、その冷静な対話や交渉力を有する中山に対し、非常に感心していたという。これは美化した過大表現ではなく紛れもない事実話しである。
-1972年(昭和47年)、多数の三代目[[山口組]]最高幹部や直参からも強く推薦され、中井組若頭から内部昇格し、三代目[[山口組]]・[[田岡一雄]]組長から盃を貰い、[[山口組]]直参に昇格する。
-1981年6月、4年前に[[菅谷政雄]]は、川内組長射殺事件や度重なる不備な行動で、三代目[[山口組]]から絶縁処分を受けながらも組を温存していた。その後は出資法違反容疑で服役していたが、その間に幹部組員も大量に脱退し、改めてここで[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]の解散を決断し、三代目[[山口組]]若頭補佐・[[竹中正久]]と、同じく若頭補佐の[[中山勝正]]を伴い、三代目組長の[[田岡一雄]]の元に「長いこと親不孝しました」と詫びを入れカタギとなった。警視庁は、この[[菅谷政雄]]を解散に追い込んだ中心人物は、[[中山勝正]]であると認定している。
-1984年7月、[[田岡一雄]]の死去後、後任として[[竹中正久]]の[[山口組]]四代目の継承式に反発した[[山広組]]・[[山本広]]や、[[加茂田組]]・[[加茂田重政]]らが[[山口組]]を脱退、[[一和会]]を結成した。
-1985年1月26日21時15分過ぎ、神戸の[[山口組]]新本部の上棟式の後、四代目[[山口組]]組長・[[竹中正久]]に同行していた若頭・中山勝正と、[[山口組]]・[[南組>南組(山口組)]]組長・[[南力]]は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」に着いたところを、1階エレベーター前で待ち伏せていた[[一和会]]の暗殺部隊・田辺豊記、長尾直美、立花和夫によって一斉に銃撃された。
[[南力]]はその場で即死、中山勝正は救急車で病院に搬送されたものの、翌27日1時7分に死亡した。
[[竹中正久]]は9時間にも渡る手術を受けたものの、27日23時25分に死亡した。
[[竹中正久]]は9時間にも渡る大手術を受けたものの、やはり27日23時25分に死亡した。
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-35歳で三代目[[山口組]]直参に昇格し、5年後には[[山口組]]若頭補佐として執行部入り、山口組四代目組長に[[竹中正久]]は中山を推薦し、中山は竹中を推薦した。結果竹中が継承し、四代目[[山口組]]組長に就任した[[竹中正久]]は、「わしは5年ほど組長をさせて貰うで、次は中山に継がせるつもりや」とまで言われた程、若手でありながら武闘性、経済力、えこひいきもせず公平な裁き、末端の組員にまで声を掛け、人間性にも大変優れた人物であり、凶弾に倒れ早世し、山口組の頂点は掴めず無冠でありながらも、事実上は帝王であり生き様は侠客であった。
-[[山口組]]幹部会に出席した際、中山を知らない新直参組長が肩で風を切りながら中山に「そこどかんかい」と言った。全く気にもしない中山が側近に「あれは誰な?」と苦笑いしながら幹部会に集合し定時刻から会議が始まった。そこで初めて中山が本家若頭と知った新直参組長が、一瞬で顔面蒼白になってしまい、幹部会の終了後即座に謝罪しに来たが、中山は笑顔で「今後はよろしゅうに」と低姿勢で述べた話も存在する。これが中山勝正である。
-1985年1月30日未明、中山勝正の葬儀が高知市長尾山町で行われた。
葬儀の後、中山家の遺族は並べきれないほど集まった沢山の供物を、町の老人ホームへ送る事にした。ホームの職員は、亡くなった中山はヤクザなので、後々問題になっては困ると思い、町長に相談した。町長は警察へ相談したが、いい返事を得られなかった。そこで町長は機転を利かせ、今度は病院の院長へ相談した。町長は「葬式のお供物の菓子や果物を、ホームの年寄りに食べさせたら害があるかのう?」との問いに病院の院長は「お供物であろうと、町で買うたもんであろうと、新鮮な物なら全く身体に害はない」と答えた。町長は職員に「医者に聞いたところ身体に害はない言うきに受け取ったと、ワシが全部責任持って言いくるめるきに、お前は心配せんで受け取れ」と職員に言った。生前時の中山が、如何に日頃から地元の市民を大切にしてきたかの所以であろう。
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