#author("2024-03-14T20:40:30+09:00;2022-12-18T15:18:40+09:00","","")
* 中山勝正 [#p01c8ff5]
''中山勝正''(1937年10月25日-1985年1月27日)は日本のヤクザ。四代目[[山口組]]若頭、[[豪友会]]初代会長。
**略歴 [#x69678cd]
#ac(h,open){{
-1984年7月、[[竹中正久]]の[[山口組]]四代目の継承式に反発した[[山広組]]・[[山本広]]や[[加茂田組]]・[[加茂田重政]]らが[[山口組]]を脱退、[[一和会]]を結成し[[山一抗争]]へと突入。
-1985年1月26日21時15分過ぎ、神戸の[[山口組]]新本部の上棟式の後、四代目[[山口組]]組長・[[竹中正久]]に同行していた若頭・中山勝正と、[[山口組]]・[[南組>南組(山口組)]]組長・[[南力]]は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」に着いたところを、1階エレベーター前で待ち伏せていた[[一和会]]の暗殺部隊・田辺豊記、長尾直美、立花和夫によって銃撃された。
[[南力]]はその場で即死、中山勝正は救急車で病院に搬送されたものの、翌27日1時7分に死亡した。
[[竹中正久]]は9時間にも渡る手術を受けたものの、27日23時25分に死亡した。
}}
-35歳で三代目[[山口組]]直参に昇格し、5年後には[[山口組]]若頭補佐として執行部入り、山口組四代目組長に[[竹中正久]]は中山を推薦し、中山は竹中を推薦した。結果竹中が継承し、四代目[[山口組]]組長に就任した[[竹中正久]]は、「5年ほど組長をしたら、次は中山に代を継がせるつもりや」とまで言われた程、若手でありながら武闘性、経済力、えこひいきもせず公平な裁き、末端の組員にまで声を掛け、人間性にも大変優れた人物であり、凶弾に倒れ早世し、無冠でありながらも、事実上は帝王であり生き様は侠客であった。
-[[山口組]]幹部会に出席した際、中山を知らない新直参組長が肩で風を切りながら中山に「そこどかんかい」と言った。中山が側近に「あれは誰な?」と苦笑いしながら幹部会に集合し定時刻から会議が始まった。そこで初めて中山が本家若頭と知った新直参組長が、一瞬で顔面蒼白になってしまった話も存在する。これは実話である。
-1985年1月30日未明、中山勝正の葬儀が高知市長尾山町で行われた。
葬儀の後、中山家の遺族は並べきれないほど集まった沢山の供物を、町の老人ホームへ送る事にした。ホームの職員は、亡くなった中山はヤクザなので、後々問題になっては困ると思い、町長に相談した。町長は警察へ相談したが、いい返事を得られなかった。そこで町長は機転を利かせ、今度は病院の院長へ相談した。町長は「葬式のお供物の菓子や果物を、ホームの年寄りに食べさせたら害があるかのう?」との問いに病院の院長は「お供物であろうと、町で買うたもんであろうと、新鮮な物なら全く身体に害はない」と答えた。町長は職員に「医者に聞いたところ身体に害はない言うきに受け取ったと、ワシが全部責任持って言いくるめるきに、お前は心配せんで受け取れ」と職員に言った。生前時の中山が、如何に日頃から地元の市民を大切にしてきたかの所以であろう。
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