中山勝正
中山勝正(1937年10月25日-1985年1月27日)は日本のヤクザ。四代目山口組若頭、豪友会初代会長。
略歴
- 1984年7月、竹中正久の山口組四代目の継承式に反発した山広組・山本広や加茂田組・加茂田重政らが山口組を脱退、一和会を結成し山一抗争へと突入。
- 1985年1月26日21時15分過ぎ、神戸の山口組新本部の上棟式の後、四代目山口組組長・竹中正久に同行していた若頭・中山勝正と、山口組・南組組長・南力は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」に着いたところを、1階エレベーター前で待ち伏せていた一和会の暗殺部隊・田辺豊記、長尾直美、立花和夫によって銃撃された。
南力はその場で即死、中山勝正は救急車で病院に搬送されたものの、翌27日1時7分に死亡した。
竹中正久は9時間にも渡る手術を受けたものの、27日23時25分に死亡した。
- 35歳で三代目山口組直参に昇格し、5年後には山口組若頭補佐として執行部入り、山口組四代目組長に竹中正久は中山を推薦し、中山は竹中を推薦した。結果竹中が継承し、四代目山口組組長に就任した竹中正久は、「5年ほど組長をしたら、次は中山に代を継がせるつもりや」とまで言われた程、若手でありながら武闘性、経済力、えこひいきもせず公平な裁き、末端の組員にまで声を掛け、人間性にも大変優れた人物であり、凶弾に倒れ早世し、無冠でありながらも、事実上は帝王であり生き様は侠客であった。
- 山口組幹部会に出席した際、中山を知らない新直参組長が肩で風を切りながら中山に「そこどかんかい」と言った。中山が側近に「あれは誰な?」と苦笑いしながら幹部会に集合し定時刻から会議が始まった。そこで初めて中山が本家若頭と知った新直参組長が、一瞬で顔面蒼白になってしまった話も存在する。これは実話である。
- 1985年1月30日未明、中山勝正の葬儀が高知市長尾山町で行われた。
葬儀の後、中山家の遺族は並べきれないほど集まった沢山の供物を、町の老人ホームへ送る事にした。ホームの職員は、亡くなった中山はヤクザなので、後々問題になっては困ると思い、町長に相談した。町長は警察へ相談したが、いい返事を得られなかった。そこで町長は機転を利かせ、今度は病院の院長へ相談した。町長は「葬式のお供物の菓子や果物を、ホームの年寄りに食べさせたら害があるかのう?」との問いに病院の院長は「お供物であろうと、町で買うたもんであろうと、新鮮な物なら全く身体に害はない」と答えた。町長は職員に「医者に聞いたところ身体に害はない言うきに受け取ったと、ワシが全部責任持って言いくるめるきに、お前は心配せんで受け取れ」と職員に言った。生前時の中山が、如何に日頃から地元の市民を大切にしてきたかの所以であろう。
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