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* 藤江万吉 [#n717862b]
&size(16){''藤江万吉''(通称・上万(じょうまん)、四ツ目上萬(よつめの じょうまん))は幕末の侠客、博徒。[[上萬一家]]初代。};
''藤江万吉''(通称・上万(じょうまん)、四ツ目上万(よつめの じょうまん)、明治30年5月15日)は幕末の侠客、博徒。[[上萬一家]]初代。
** 略歴 [#se718635]
-屋号を上総屋としたため、上総屋の萬吉がつまって上萬と呼ばれた。
-幕末に上野国の農家に生まれた。
-江戸本所四ノ橋の袂に住み、寄席を業としていた。
-屋号を上総屋としたため、上総屋の万吉がつまって上萬と呼ばれた。
別説では、幕府から材木の宰領をまかされ、その錠を預かっていたのと、その名が万吉だったことから、人が「錠万」といったことからついたという。
-南葛十万石と呼ばれた広大な縄張りを現在の墨田区、江東区を中心に築き、配下は2000人とも言われた。
-堅実さが認められ、他人の米蔵の管理を依頼されるぐらいであった。
-鹿倉某という素人に博打を教わり、数千人の舎弟、子分をもつ博徒の親分になった。
-[[清水次郎長]]や[[笹川一家]]もその傘下に集うほどで、藤江家の菩提寺が第二次世界大戦で消失し再建のために信徒に寄付を依頼した際、藤江家は手元不如意のため寄付不足分を昔の縁者に行くよう申し入れ、[[清水次郎長]]の子孫は「藤江家から連絡があり、喜んで寄付させて頂きますが、先祖の遺志により、当家の名ではなく、藤江家分に合算してください」とし、笹川家の子孫も同様で、死後数十年たった後も、子孫同士の付き合いがあった。
-交流のあった伊藤痴遊によると「関東屈指の大親分であったが、死の際までも絹の着物を着なかった。いつでも唐棧縞の木綿着物で自分だけは生涯を通して万事を質素にして終わったが、旅人や子分に対しては心を尽くして親切にしたので評判が良かった。」と評された。
-[[清水次郎長]]と五分兄弟分。
-明治30年5月15日死去。二代目・[[藤江万次郎]]は息子。
[[清水次郎長]]の遺志により、同じ型の伊予石を二つ準備し、その一つは次郎長の墓石として清水の梅陰寺に、もう一つを万吉の墓石として柳島の妙見山法性寺に、どちらも榎本武陽による書で納められた、万吉の墓石には「侠客上萬墓」と記して、現存している。
** 検索用 [#v92d1e65]
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