笹川繁蔵
笹川繁蔵(ささがわの しげぞう、本名・岩瀬繁蔵、1810年-1847年8月14日)は幕末の侠客、博徒、元力士。笹川一家初代。
略歴
- 下総国香取郡笹川村の人か。
- 文化7年、下総国須賀山村大木戸(現東庄町笹川)の代々醤油醸造をする村の富豪・岩瀬嘉三郎の三男に生まれ、幼名福松といった。
- 力士になりたくて江戸に出て、千賀の浦部屋に入門して四股名を岩瀬川といった。
- 1年で故郷に戻ると、常陸の芝宿文吉が須賀山村に賭場を置いて、そこへ出入りしていた。文吉親分に見込まれ駒札を譲り受け笹川の親分となる。
- 下総国海上郡(現千葉県香取郡東庄町)に住まい、大親分として侠名をうたわれた。
- 藪雨仁蔵の子分であったとも言われる。
- 子分には平手造酒や、勢力富五郎等がいた。
- 飯岡助五郎と争い、飯岡一家の堺屋与助、三浦屋孫次郎、成田甚蔵の三人に、夜半襲撃され斬り殺され、首は飯岡の定慶寺の大榎の近くに埋められた。
- 数年後助五郎の妻がそこに供養墓を建てたが、助五郎の耳に入ったので墓石を埋めてしまった。昭和8年道路改修のため発掘した所墓石が出て来た。
表面に清岩繁勇信士、弘化2年9月3日と刻んであったというが、歿年は間違っている。
飯岡町ではその付近に笹川繁蔵之首塚を建之。
- 笹川の延命寺に繁蔵之碑がある。
- 笹川の諏訪神社にある野見宿禰の碑に願主岩瀬繁蔵とある。
- 弘化4年7月4日歿。行年38歳。墓所は千葉県香取郡東庄町笹川の西福院。
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