#author("2023-01-23T02:49:04+09:00","","") * 笹川繁蔵[#cf5c289e] &size(16){''笹川繁蔵''(ささがわの しげぞう、本名・''岩瀬繁蔵''、1810年-1847年8月14日)は幕末の侠客、博徒、元力士。[[笹川一家]]初代。}; ** 略歴[#aa3f565e] -下総国香取郡笹川村の人か。 -文化7年、下総国須賀山村大木戸(現東庄町笹川)の岩瀬嘉三郎の三男に生まれ、幼名福松といった。 -力士になりたくて江戸に出て、千賀の浦部屋に入門して四股名を岩瀬川といった。 -常陸の芝宿文吉が須賀山村に賭場を置いて、そこへ出入りしていた。文吉親分に見込まれ駒札を譲り受け笹川の親分となる。 -下総国海上郡(現千葉県香取郡東庄町)に住まい、大親分として侠名をうたわれた。 -[[藪雨仁蔵]]の子分であったとも言われる。 -子分には[[平手造酒]]や、[[勢力富五郎]]等がいた。 -[[飯岡助五郎]]と争い、[[飯岡一家>飯岡組]]の[[堺屋与助]]、[[三浦屋孫次郎]]、[[成田甚蔵]]の三人に、夜半襲撃され斬り殺され、首は飯岡の定慶寺の大榎の近くに埋められた。 -数年後助五郎の妻がそこに供養墓を建てたが、助五郎の耳に入ったので墓石を埋めてしまった。昭和8年道路改修のため発掘した所墓石が出て来た。 表面に清岩繁勇信士、弘化2年9月3日と刻んであったというが、歿年は間違っている。 飯岡町ではその付近に笹川繁蔵之首塚を建之。 -笹川の延命寺に繁蔵之碑がある。 -笹川の諏訪神社にある野見宿禰の碑に願主岩瀬繁蔵とある。 -弘化4年7月4日歿。行年38歳。墓所は千葉県香取郡東庄町笹川の西福院。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正にご協力ください。 ※誹謗中傷や悪戯、荒らし行為、悪質な売名行為、他サイトの宣伝などは''厳禁''とします。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧ください。 -編集を依頼される場合、他のユーザーに編集協力を依頼する時は下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼してください。 運営宛に編集依頼する時は【[[メールで編集依頼]]】から依頼してください。 ---- 【このページの編集依頼】 #comment ~