#author("2023-03-29T16:54:48+09:00","","") *丸茂一家 [#x5044e1f] &size(16){''丸茂一家''(まるもいっか、別名・森田一家)は北海道函館に本拠を置いた博徒系暴力団。}; **略歴 [#z1ab0c7c] -嘉永5年(1852年)1月15日、[[森田常吉>丸茂常吉]]が千葉県船橋五日市の父森田銀蔵の二男に生れる。 -常吉は14、5歳の頃、祖父[[植田十兵衛]]の家に出入りしている内に、博打を覚えた。 -17歳の時、[[十兵衛>植田十兵衛]]の開帳する賭場が次第に客が少なくなっていくのに見かねて、かねて敵視している相手方の賭場に乗込んで盆を引いた。その時、喧嘩となり相手方の人間に首と背中を斬られ重傷を負う。 -常吉の孫、春木喜美江がいうには、背中に子供の拳骨が入るほどの穴があり、首も思うように回らなかったという。 -明治初期、[[森田常吉>丸茂常吉]]が北海道に移住。土工として開拓労働に携わった。 -この頃の北海道では、開拓需要により、多数の男が北海道に出稼ぎにやってきていた。開拓労働者の主な生活拠点は、飯場(宿泊所)であり、そこの娯楽として酒と賭博が盛んであった。 -[[森田常吉>丸茂常吉]]は土工でありながら、次第に飯場の賭場で力を持つようになった。やがて土工から博徒に変わり丸茂一家を興した。 -一家のナンバー2的存在だった宮川勇は、道内における丸茂一家の活動範囲拡大に寄与した。 丸茂一家は根室、小樽、稚内、旭川等を活動範囲とした。 最盛期には構成員は約2万人だったと言われる。 -明治43年(1910年)、函館警察署より丸茂一家は博徒結合罪の適用を受けた。その結果、[[森田常吉>丸茂常吉]]や最高幹部ら約80人が検挙され、実刑を受けた。 -以降、丸茂一家は衰退し消滅した。 -森田常吉は昭和10年3月14日に死去。行年84歳。墓所は函館市住吉町の地蔵堂。 **組織図 [#s65cc531] [[丸茂常吉]] [[宮川勇]] ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 ※誹謗中傷や悪戯、あらし行為、悪質な売名行為、他サイトの宣伝などは厳禁とします。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -編集を依頼される場合、他のユーザーに編集協力を依頼する時は下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 運営宛に編集依頼する時は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 ---- 【このページの編集依頼】 #comment ~